コロナ禍に球児へ贈ったキーホルダー 阪神の選手たちと集めた「甲子園の土」
2026年05月12日 公開
語り継がれる名試合、観客を沸かせるプレー。その「舞台」を支える裏方の活躍があります。(取材・文 キムラミワコ)
※本稿は、月刊誌『PHP』2024年4月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
「神整備」と称賛される仕事
阪神タイガースの本拠地であり、高校球児がその土を踏ふむことを目標とする「野球の聖地」として名高い兵庫県の阪神甲子園球場。今から100年前の大正時代、人力で土を運び込み、牛にローラーを引かせてならし、グラウンドが完成した。
内野全域が土の球場は、プロ野球12球団の本拠地で甲子園だけ。取材のあと、球音も歓声も聞こえない土のグラウンドに立った瞬間、荘厳な空気に圧倒された。
グラウンドに迎え入れてくれたのは、阪神園芸の金沢健児さん。甲子園の土を管理し、整備するグラウンドキーパーだ。
「全部の土を入れ替えた記録はないので、100年前の土も現役で活躍しているはず。オフシーズンはグラウンドを耕耘機で耕し、土を新しくする大事な時期です」
下層で固まった土を掘り返す、畑仕事のような作業だという。土を攪拌して空気に触れさせることで、黒土と砂のバランスを改良し、雨が降ったあとタイミングを見計らって天日と風で土を乾かし、グラウンドを固める。水はけのいいグラウンドに仕上がるかどうかは、この作業で決まるのだ。
金沢さん率いる阪神園芸の甲子園球場チームは、雨で泥沼になったグラウンドを数時間で回復させ、試合中もこまめに土を補修しコンディションを保つなど、その高い技術とスピーディーな作業が、野球を愛する人々から「神整備」と称賛されている。
野球に携わる仕事がしたい
金沢さんは1967年、神戸市で生まれた。人生初めての「甲子園」の記憶は4歳のとき。高校生の叔父が兵庫県大会に出場し、母と応援に行った。
「もう一人の叔父が阪神タイガースファンで、試合をよく見に行っていました。母子家庭だったので、叔父たちがかわいがってくれて。その影響で野球を始めました」
金沢さんと甲子園との縁が生まれたのは、小学校4年生のころ。母が甲子園球場の職員として働くことになったのだ。母の仕事が終わるのを待ちながら野球観戦するのが楽しみだった。
甲子園では球団職員や阪神タイガースの選手から「健ちゃん」と呼ばれ、当時現役だった藤田平さんや掛布雅之さんらとキャッチボールをすることもあった。
「甲子園出場も夢でしたし、自分はプロになれると思っていました。でも、中学のときにケガをして野球をやめたんです」
野球ができない悔しさを抱えながらスタンドでグラウンドをながめていると、「よかったら高校野球の時期にアルバイトにおいで」と声をかけてくれた人がいた。
甲子園のグラウンド整備の礎を築いた〈伝説のキーパー〉、藤本治一郎さんだ。藤本さんはその高いプロ意識から、後輩キーパーだけでなく選手をも叱り、一目置かれる存在だった。
「藤本さんはいつもやさしく見守ってくれる存在でしたが、大人たちが怖がっているのは子供ながらにわかりましたよ。当時の得点板は手動式。スコアボード裏で、熟練のグラウンドキーパーが書いた得点板を表に返すことが私の役目でした」
ほどなくスコアボードは電光式になり、高校生になった金沢さんはグラウンドで整備の手伝いをするように。しかし、学校生活が忙しくなり、次第に甲子園から足が遠のいた。卒業後は商業高校での学びを生かせるOA機器の販売会社に就職。
野球やグラウンド整備とはまったく関係のない仕事だったが、社会人としての基礎や組織の中で客観的に物事を捉える判断力を身につけた。一般企業で勤めた経験はのちに金沢さんの強みとなる。
社会人2年目のころ、母が入院することになった。重篤ではなかったが、残業が続いて1度しかお見舞いに行けず、やりきれない思いが募った。
そんな折、阪神園芸でグラウンドキーパーを募集していると母から聞く。甲子園と金沢さんの縁が再びつながるときがきた。
「やはり野球に携わりたいという気持ちが大きくて、甲子園で働くと決めました」
金沢さんは阪神園芸株式会社に転職。20歳のときだった。
慣れ親しんだ甲子園での仕事だったが、甘くはなかった。寡黙で職人気質な先輩キーパーたちのもとでは、見よう見まねで仕事を覚える必要があった。そのうえ、先輩の思い通りにできなかったら怒鳴られる。
「とにかく言われたことをやり続けました。物事の道理がつかめたら、あとは自分で試して学んでいくしかありません。できることを増やし、怒られる数を減らすことがモチベーションでしたね」
金沢さんが入社したとき、藤本さんはすでに定年退職していた。その技を受け継いだのが、藤本さんの娘婿の辻啓之介さんだ。
誰もが絶望するような荒れ果てたグラウンドを最短で回復させたり、ゴルフ場で芝を整備する機械を甲子園仕様にアレンジしたりと、新しいことを次々に編み出す辻さんの仕事ぶりに、金沢さんは驚くばかり。技だけでなく、仕事への気構えも教わった。
「仕事に慣れて気が緩んできたころ、グラウンドにムラを作ってしまい、『これでケガしてレギュラーを奪われたら選手は終わりなんやぞ』と怒鳴られました」
わずかな土の乱れが、勝敗の行方や選手の人生を左右するのだと痛感した。
辻さんのもとで経験を積んだ金沢さんは、近隣の球場のグラウンド整備も任せられるようになった。
「グリーンスタジアム神戸(現・ほっともっとフィールド神戸)を担当したとき、オリックスの現役選手だった福良淳一さんが『今日のグラウンド最高やん』と笑顔で言ってくれたんです。
このひと言で自分の整備はまちがっていないと確信が持てました。自分の中では100点の整備でも、選手がプレーしづらかったらダメですから」
プライベートでは1994年12月に結婚。その翌月、阪神・淡路大震災が起こった。金沢さんは急いで一人暮らしの母のもとへ向かうも、実家は倒壊して燃えていた。母の姿はなく、どこかに避難していることを祈りながら探しまわった。
「一週間くらい経ってようやく鎮火し、実家の焼け跡に行くと骨があって......。母でしかありえないと思いました」
悲しみは決して消えることはない。でも、母との思い出がつまった甲子園での仕事が、大きな支えになったのではないだろうか。金沢さんは仕事に打ち込んだ。そして、辻さんの跡を継いでチーフになる意欲も次第に高まっていった。
「振り返ると、そこが人生の転換期になりました。甲子園の整備でたくさんの人に喜んでもらえ、守るべき家族もいる。おかげで今は毎日を笑って過ごせています」
職人頼みではないチームづくりへ
2001年、阪神タイガースの和田豊さん(現・二軍監督)が現役引退のスピーチで阪神園芸に感謝の気持ちを贈ってくれたことで、グラウンド整備の仕事は「甲子園を支える裏方」として注目されるようになった。
そんななか、辻さんが予定より早く現場を離れ、金沢さんは突然チーフを任されることになった。36歳のときだ。
チーフになって特に力を入れたのが、個々の技を極める職人の集団から脱却し、互いに協力し合えるチームづくり。後継者も一人ではなく、複数人を考えている。
「グラウンド整備は、雨の降り方や太陽の出方などいろいろな条件に左右されますから、マニュアルなんてありません。感覚だけが頼り。だから経験が大事なんです。
今は中堅が若手を指導し、メンバーそれぞれの得意分野を生かしてうまく機能しています。整備のチームワークを高めることが、野球界全体のレベルアップにつながるという気持ちでやっています」
今なお野球ファンの心に刻まれている「神整備」が、2017年のセ・リーグのクライマックスシリーズ、阪神タイガース対横浜DeNAベイスターズの第2戦だ。
降り続く雨でグラウンドの状態が悪いなか、日程の都合で試合開催が決定。金沢さん率いるチームは、懸命の整備でプレーボールにこぎつけ、プレー中も選手が違和感を訴えればすぐさまグラウンドに土を補充するなど、ケガ人を出さずに試合の完遂を実現させた。
阪神園芸の整備とチームの奮闘を称える声がSNSに飛び交った。その後も数々の熱戦の裏で、チーム一丸の整備が繰り広げられた。
2020年、コロナ禍で甲子園は閉鎖となった。だが、土も芝も生き物。金沢さんのチームは交代で球場に通って整備し、選手がいつでも戻ってこられるようにグラウンドを守り続けた。
しかし、春夏ともに高校野球中止が決定。やりきれない気持ちのなか、阪神タイガースの矢野燿大監督(当時)から「甲子園への道を断たれた球児たちへ、甲子園の土をつめたキーホルダーを贈りたい」と相談を受けた。
「私たちが整備している土が球児たちへのエールになるならと、協力は惜しみませんでした。阪神の選手たちも、高校時代に戻ったようにそれぞれの甲子園の思い出を熱く語り合いながら、みんなで土を集めたんです。グラウンドキーパー人生で、もっとも印象的な日でした」
子供時代の甲子園への強いあこがれが、多くの野球人の原点になっているのだ。昨年、高校野球はコロナ禍前の運営に戻り、阪神タイガースは日本一に輝いた。
金沢さんは今年、57歳(※当時)。甲子園のさらなる100年に向けて、歴代のキーパーたちの蓄積されたノウハウを継承しなければいけない年齢だ。
引退までにやりとげたいことを聞くと、金沢さんは笑いながら「夢」の話をしてくれた。
「雨が降ると整備が大変なので称賛してもらえてうれしいですが、本当に大変ですよ。だから『1年、雨で試合中止はなし』が夢なんです」
天気を操ることはできない。でも、天気を予測して対策はできるし、雨上がりのグラウンドを回復させることもできる。整備でスムーズな試合を実現させられるという意味では、その夢はとっくに実現しているのかもしれない。