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山本覚馬と幕末京都

星亮一(歴史作家)

2013年01月22日 公開 2024年12月16日 更新

PHP新書『八重と会津落城』より

 

覚馬、京都で勝海舟と再会

主君・松平容保への直訴が成功し、山本覚馬は元治元年(1864)2月、主君より1年2ケ月遅れて京都に入った。この時、37歳である。砲術師範には、弟子の川崎尚之助を残してきた。妹の八重の夫になる人物である。

尚之助は兵庫の出石藩の町医者の息子だが、どのようないきさつで会津に来たのか。

『会津藩教育考』によれば、会津藩に蘭学所が開かれたことを知って、覚馬を訪ねてきたという。そして覚馬が尚之助の非凡さを見抜き、日新館蘭学所の教授に推薦したとあるが、もともと江戸で知り合ったのではなかろうか。突然、訪ねてくるというのは不自然である。

また、当時の結婚も一般的には親が決める。そういう観点からすると、八重が尚之助に好意を寄せた、あるいは尚之助が八重に求婚したというよりは、覚馬が八重に結婚を命じて出かけたに違いない。

京都に着いた覚馬は久方ぶりに勝海舟と会う。海舟は軍艦奉行(役高二千石)になっており幕府の高官である。にもかかわらず、海舟は幕府を見限っているように見えた。

「どうもね、世の中、石頭が多い」と嘆いた。 (中略)

 

佐久間象山の危惧、攘夷派が天皇の身柄を狙う

この時、佐久間象山は京都にいた。象山の身分は将軍後見職・一橋慶喜の顧問だった。人は皆ひれ伏し、象山の意見を聞く。

その容貌は額が広く顔は長い。頬骨が出て、眼は奥まった二重瞼で炯々と光り、着物は黒色、乗馬用の袴をはき、笠を被り、黒塗りの鞭を手にし、白毛の馬には西洋風の鞍をかけ、京の町を闊歩していた。年は50前後。「攘夷は国を滅ぼす」「日本の生きる道は開国のみ」と叫んでいた。だがこの時、天下は別の方向に向かって進んでいく。

激化する一方の攘夷運動である。その動きが激しくなれば、諸外国に対し、実力行使に出る者も現れよう。そうなれば、列強諸国は軍艦を出して即刻、報復行為に出るだろう。下手をすれば、日本の領土をどこかに奪い取られてしまう。象山はそれを危惧した。

覚馬は、しばしば三条木屋町の自宅に象山を訪ね、時世を論じた。象山は孝明天皇を彦根に移すことを考えていた。過激な攘夷派が、天皇を拉致することを恐れたのだ。

天皇の身柄が奪われれば、幕府や会津は即「賊軍」へと転落する。そこで象山が考えたのは「彦根遷都」だった。佐幕の筆頭格である彦根(藩)に遷都すれば、過激派は手も足も出なくなり、天皇を攘夷派に強奪されるような危険はなくなる。

この秘密工作――会津では覚馬の他に、公用人の広沢安任が関係していた。そして彦根への遷都計画には、朝廷内部にも賛同者がいた。長州嫌いの中川宮や山階宮である。

 

象山暗殺、「彦根遷都」が長州に伝わる

彦根遷都は大胆な発想だった。しかし象山は脇が甘かった。「彦根遷都」を小耳に挟んだ長州の品川弥二郎が、象山を訪ねて聞きただした。

象山はあっさり認めた。自信過剰のせいだろう。品川から報告を受けた木戸孝允、山田顕義らは激怒し、実行の前日、公家のところに次のような手紙を投げ込んだ。

「会賊の姦曲、邪謀は、天下の知る所にて、会賊尊攘の大義を拒み、恐れ多くも鳳輦(ほうれん:天皇の乗物の称)を移し奉って己を免れんと大逆之姦謀を巧み」という内容である。にもかかわらず、象山は無警戒だった。

元治元年(1864)7月12日、象山はいつものごとく馬で町中を歩き、その帰りに自宅と目と鼻の先で突然、複数の刺客に襲われた。落馬した象山は13ヶ所も刺され、血まみれになって倒れ、絶命した。54歳だった。

知らせを受けて、最初に駆けつけたのは覚馬であった。

覚馬は天を仰いで落胆した。

犯人は熊本藩士・河上彦斎、鳥取藩士・前田伊右衛門と言われている。しかし、確証はなく不明の部分が多い。安藤源五郎という15歳の長岡藩の少年も加わっていたという。河上は「人斬り彦斎」と呼ばれた男である。

「あいつはひどい奴さ。こわくて、こわくて、ならなかったよ」
と後に海舟が回想している。

テロが成功するや、長州勢は「愉快、愉快」と絶唱した。象山にも隙があった。「俺は天下の師だ」と大げさに構え、漢学者が来ると洋学の知識で脅しつけ、洋学者が来ると漢学の知識で圧倒するという具合で、始末の悪い男だった。

そのため、しばしば恨みを買った。象山もそのことは知っており、「いつか自分は殺される」と思っていたらしい。だが、そのわりには身辺に警護の者を置かなかった。海舟とは大違いである。海舟の周囲には、坂本龍馬や岡田以蔵らの剣客がいた。

それにしても、よりによって長州の品川に話すとは、不用意というよりは傲慢だった。この辺りは、松本健一著『評伝佐久間象山』(中公叢書)に詳しい記述がある。

 

禁門の変、長州勢を撃退するも死傷者多数

象山が暗殺されてから7日後の7月18日、「池田屋事件に報復せん」と長州勢は蛤御門(禁門)の変を起こす。覚馬も砲兵隊を率いて戦い、長州勢を撃退したが、会津藩の損害もおびただしいものがあった。

その一報が会津の城下に入るや、人々は青ざめた。向こう三軒両隣、話はいつも京都のことだった。兄・覚馬はどうなっているのか。藩庁に京都から知らせが入るたびに、八重の家族は一喜一憂した。

知らせは京都在住の重役連名で、在城の重臣・高橋外記、横山主税、田中土佐、一瀬勘兵衛、井深茂右衛門に届けられた。

禁門の変では、堺の鷹司邸から長州勢が御所に向かって発砲し、兄・覚馬は大砲組を指揮して必死に防戦。何とか撃退したが手負いの者、死人が多数出たとあった。戦死者の家は悲しみに包まれた。

長州が御所に発砲とは信じがたい暴挙と八重も怒り、会津城下は反長州一色に染まる。

やがて戦死者の詳しい名簿が送られてきて、城下は騒然となった。

死傷者は46人にも達し、戦死者の家族は泣き叫んだ。その名簿を手にした八重の父・権八は、いずれ大戦争が起こるのではないかと不安にとらわれた。人々は名簿を奪い合うようにして読んだ。

兄・覚馬の名前がなかったので八重は安堵したが、知人が大勢いてそれぞれ家族の顔が浮かび、涙が出て仕方がなかった。いずれ弟の三郎にも上洛の命令が来るだろう。八重は覚悟した。後日、長州勢を追い払った功績で、覚馬が表彰されたことが伝えられた。

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