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山本覚馬と幕末京都

星亮一(歴史作家)

2013年01月22日 公開 2024年12月16日 更新

西洋の新式銃を購入せよ――軍備の近代化

この時期の覚馬は意欲的だった。会津藩の政策は在京の公用局で行なわれたが、ここには階級を超えて有能の士が結集していた。国元は保守頑迷だが、京都は革新的であった。

長州藩の政事堂に匹敵する政策策定機関が存在した。ただしトップは上級武士であり、何ごとにも消極的な藩主・容保の意向が色濃く反映されたので、そこには自ずと限界もあった。

薩長が軍事大国への道を歩むなか、会津藩の喫緊の課題は軍備の近代化だった。これも具体化は大変であった。藩の財政難が正面にはだかり、説得に骨が折れた。

新式の鉄砲の購入は武器商人を通じて発注するのだが、外国から船で荷を運んでくるので、手に入るまでかれこれ1年はかかる。

覚馬の焦りはそこにあった。いずれ日本で大動乱が起こるかもしれない。会津藩は京都守護職にもかかわらず、軍備はあまりにみすぼらしい。ようやく、若き重臣の梶原平馬が理解を示し、新式銃購入の運びとなった。

ところで『史籍雑纂』(続日本史籍協会)所収の『会津藩文書』に、極めて注目すべき文書があった。慶応3年(1867)2月25日付の京都御用所から江戸、会津御用所に宛てた密事文書である。その内容は次のようなものだった。

「山本覚馬、中沢帯刀一同、孛漏士(プロシャ人)カール・レイマンと、同船で長崎より兵庫まで帰着し、覚馬はレイマンと兵庫に留まり、帯刀は京都にまかり出て元込筒(銃)7挺と風砲1挺を持参した。そのうち元込はもっとも便利で、1挺で6人に対処でき、西洋各国の銃砲はこのために一変したということである。その品は年内にも誂えることができるとのことである。これについて田中土佐が俄かに出立し、6、7日にレイマンと対話し、8日まで兵庫にいて10日に帰京した。その節、元込筒1000挺を代金5000両で注文いたすよう覚馬と帯刀に指図した。そのほか津川辺の調査も依頼した。すべて会津の国益にかなうものであり、節々にお伝えする」

京都御用所が、専決で元込め銃の購入に踏み切ったことが記載されていた。1人で数人の敵に対処できるというのは、7連発のスナイドル銃を意味していた。従来の先込め銃は1発しか撃てない。「これで弓槍中心の長沼流から、西洋式に改革することができる」と覚馬は安堵した。

この頃、蘭法医ボードウィンから目の診察を受けた覚馬は「回復は困難」と診断され、のちに失明状態になる。これは会津藩にとっても大きな痛手だった。

  

遅すぎた発注――鉄砲は敵の手に渡る

この新式銃、実は会津藩の手に渡ることはなかった。発注が遅すぎたのである。会津藩の不運はここにもあった。

購入した鉄砲の行方を記載した文献が、同志社大学の史料室に残されていた。それは慶応3年(1867)5月11日付の、カール・レイマンより山本覚馬に宛てた文書である。そこには4300挺の元込め銃の契約が成功した旨が記されていた。

同志社大学の史料室に長く勤務した竹内力雄氏の調査によると、注文した銃4300の内訳は会津が1300、紀州が3000で、紀州分から300を桑名に回すというものだった。

結局、この銃が日本に着いた時には幕府が崩壊しており、薩長軍に押さえられてしまう。長年の覚馬の懸念が的中してしまったのだ。

だが、ここで1つ気になることがある。先の密事文書には、京都御用所が1000挺の注文を指図とあるから、覚馬はその差の300挺の鉄砲を隠すことになる。新選組、あるいは京都見廻組に回すことを考えていたのであろうか。何か策があったに違いない。

 

星 亮一(ほし・りょういち)
歴史作家。1935年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部国史学科卒業。日本大学大学院総合社会情報研究科修士課程修了。福島民報記者、福島中央テレビ報道制作局長を経て独立、歴史作家の道を歩む。東北史学会会員、日本文芸家協会会員。現在は福島県郡山市在住。『奥羽越列藩同盟』(中央公論社)」で第19回福島民報出版文化賞を受賞。『会津落城』(中公新書)『ノモンハン事件の真実』『山本五十六と山口多聞』(以上、PHP文庫)など著書多数。

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