伏木庸平《オク》
東京都美術館の上野アーティストプロジェクト2025「刺繍―針がすくいだす世界」は、刺繍という技法を中心に据え、5名の作家を紹介する展覧会です。従来の公募展で選ばれた作家だけでなく、時代や背景の異なる作り手を横断的に取り上げ、刺繍がどのように表現へと展開してきたのかを示しています。
出品作家は、平野利太郎、尾上雅野、岡田美佳、伏木庸平、望月真理の5名です。戦後の日本刺繍、1960〜70年代のフリーステッチ、近年の個人制作、生活と刺繍の関係、インドのカンタに学んだ再生の実践など、刺繍を扱う視点は多様です。本展では「技法」としての枠を超え、刺繍を通して何を見て、何を考えてきたかが読み取れるよう構成されています。
平野利太郎
平野利太郎《ピーマン》
平野利太郎は、日本刺繍の技法を用いて大正期から活躍した作家です。江戸以来の職人の家に生まれ、父から技術を学び、身近な食材や花を題材にした作品を多く残しました。自宅で目にした植物や日常的な食材をスケッチし、図案化して刺繍へ落とし込む制作方法が特徴で、絹糸の光沢を活かした端正な作風が見られます。
展示の一角には、平野の父による立体的な刺繍作品も含まれています。糸を盛り上げて形を作る手法で、同家の技術的背景を示す作品です。平野作品の背景にある伝統的刺繍技法の一端を確認できます。
尾上雅野
尾上雅野《草原に遊ぶ》
尾上雅野は、1950年代後半に主婦の友社が主催した手芸展への入選をきっかけにプロの作家として活動を始めました。麻布にウールの毛糸を刺すスタイルが代表的で、下絵を使わずにそのまま糸を進める「フリーステッチ」や「絵画刺繍」という独自の呼称を用いていました。色面構成、オーガンジーによる透明感のある作品、アップリケ的な制作など、刺繍を造形表現として拡張した事例を見ることができます。
岡田美佳
岡田美佳《お集まりの午後(おしゃべりな午後)》
岡田美佳は1969年生まれの作家で、現在も制作を続けています。幼少から絵や裁縫に親しみ、20代で刺繍制作を開始しました。最初の刺繍作品は、愛読していた絵本の模写で、その後オリジナルの制作に移行しています。作品の多くは食卓風景が中心で、パン、果物、料理などが綿密に刺繍されています。
本展では約50点が展示され、食卓・自然風景という主要モチーフが一望できます。ステッチの密度や糸の方向を細かく使い分け、対象物の質感を丁寧に拾う制作姿勢が特徴です。
伏木庸平
伏木庸平 《言葉はわからなくても、この歌は私の胸を膨らませる》
伏木庸平は、刺繍を生活の一部として続けています。代表作は2011年から継続的に刺し進められている大作で、布が大きくなりすぎると切り離され、別作品として独立する仕組みをとっています。作品は具体的な図像を持たず、思考や記憶を後から思い返しながら刺していく方法をとっています。
伏木の展示室には、布の断片が天井から吊るされた状態で展示され、刺繍が物体として増殖し続ける制作過程を視覚化しています。一定の規則に従うのではなく、制作行為そのものを重視する点が特徴です。
望月真理
望月真理《太陽紋の法被》
望月真理は1926年生まれ、2023年に96歳で亡くなるまで制作を続けた作家です。戦前に洋裁学校で学び、戦後は家族のために洋服を作る中で西洋刺繍を習得しました。50代で訪れたインドの博物館でベンガル地方のカンタと出会い、以後は独学で技法を研究。古布を重ね、文様や地縫いを施す制作に取り組みました。
古い布を再生するというカンタの精神性に共感し、日本で可能な方法を模索しながら制作を続けました。展示には初期の試作、草木染めを用いた作品、着なくなった刺繍服をほどいて仕立てたのれん、身近な道具を活用した照明作品などが並び、生活と制作が密接に結びついた姿が示されています。
本展を通して、刺繍が「技法」だけではなく、生活や思考とどのように関わり、役割を果たしてきたかを比較しながら見ることができます。各作家の取り組み方は異なりますが、刺繍を用いる理由や視点の多様さが明確に伝わる展示構成になっています。
また同館では「刺繍がうまれるとき―東京都コレクションにみる日本近現代の糸と針と布による造形」も開催中です。あわせてご覧いただくと、刺繍表現の広がりをより深く味わうことができます。
上野アーティストプロジェクト2025「刺繍―針がすくいだす世界」
Ueno Artist Project 2025: Embroidery―Expression of Life from the Rhythm of a Needle
会期:2025年11月18日~2026年1月8日
会場:東京都美術館 ギャラリーA・C
開館時間:9:30~17:30(金~20:00) ※入室は閉室の30分前まで
休室日:2025年12月1日(月)、12月15日(月)、12月22日(月)~2026年1月3日(土)、1月5日(月)
料金:一般 800円 / 65歳以上 500円 / 学生・18歳以下 無料