1840年、英国の鉄道会社によって標準時(GMT)が採用され、人々の労働や生産性は管理しやすくなりました。
この時計時間は、私たちを集団で何かを成し遂げることを可能にした一方で、私たちを効率良く動かすためのツールとしても機能します。しかし、人生を充実させるうえで、時として時計時間の世界から離れることも重要です。一般社団法人日本デジタルデトックス協会理事の森下彰大さんはこう指摘します。
本稿では、森下さんの著書『戦略的暇』より、時計時間に縛られすぎず、豊かな人生を送るためのヒントを紹介します。
※本稿は森下彰大著『戦略的暇―人生を変える「新しい休み方」』(飛鳥新社)より一部抜粋・編集したものです。
時計時間が生まれるまで
ハイデッガーの技術の本質が「開匿」にあるとの指摘を踏まえると、技術があれば非常に多くのものが開発の対象であり、資源になる可能性があるとわかります。ハイデッガーは人間が自然だけではなく自分自身をも開匿し、場合によっては搾取さえしうると警告していたのです。
そして、人が人そのものを資源化するに至るうえで重要な役割を果たしたテクノロジーの一つが、「時計時間」です。2021年、米誌「ノエマ・マガジン」に大変興味深い論考が掲載されました 。
ジャーナリストのジョー・ザデーが著した「時計の暴政」では、かつては天体の移動によって移り変わる自然時間に親しんでいた人間たちが、機械式時計の誕生をきっかけに、大きく生活様式を変えたと考察しています。
機械式時計が誕生したのは、およそ13世紀頃。修道士が祈りの正確な時刻を測るために発明した、と言われています。その後、時計は世俗化し、時の権威者は自らの定めた時間を「標準時」と定め、それに沿った生活を浸透させました。それに付随して、各地に根づいていた太陽時(地方時)や、自然の移り変わりをもとに時間、そして季節を割り出す方式は影を潜めていきました。
英国の鉄道時代初期、各地の鉄道会社は現地時間に即した異なる時刻をそれぞれ採用していました。しかし、鉄道網が広がるにつれて鉄道時刻の統一が急務となり、1840年にグレート・ウェスタン鉄道が世界で初めて標準時(GMT)を採用。
他の鉄道会社も、これに続きました。標準時とは、特定の国・地域で用いられる標準時間のことで、この標準時が統一基準として用いやすいため輸送や通信の分野で多く採用され始めたのです。
1855年までには、英国のほぼすべての公共の時計はロンドンの時間、つまり標準時に設定されました。そして1880年、「時間に関する定義の法」が施行され、英国全土の法的な時間は標準時であると定められました。
標準時の導入によって鉄道の運行効率は大いに向上しましたが、その一方で、太陽が南中した(天体がちょうど真南に来た)時間を正午としていた各地の住民たちは標準時に適応しなければいけなくなり、生活のリズムが自然の流れと異なるものとなってしまいました。
米国でも鉄道網が整備され、標準時の採用が進みましたが、各地で反発を招きました。特にボストンでは、「我らの正午時間を守ろう」と抗議活動が起こったほど。ボストンの住民たちは従来の太陽時をもとにした正午の時刻が、標準時によって失われると危惧したのです。
オーストラリアの先住民アボリジニは、天体の動きや花木の開花時期、干潮から現在時刻を算出する極めて高度な計測を行っていました。しかし、入植した英国人たちは、この方法は自然的で野蛮かつ気まぐれだと断じ、入植者たちは彼らの時間をも支配しようとしました。
ここで重要なのは、時間によって労働が管理しやすくなり、生産性や対価の算出が容易になった点です。一定の労働時間に対して人間がどれくらいの生産性を上げられるかを考えたとき、私たちは人間を一種の資源として捉えているとも考えられます。記事には、次のように書かれています。
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「時計時間」は資本主義の産物ではない。そして、その逆でもない。だが、科学や宗教が時間を同一に分割したことは、資本主義にとって好都合だった。資本家たちは時計時間を便利なインフラとして用い、人間の体と労働、商品を搾取し、金銭的価値に変えたのだ。
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時計時間は私たちが生まれつき共有している時間でもなんでもなく、近代の発明品の一つにすぎません。そして、この発明品は時代折々の権力者にとって有利に使われてきた側面があります。
ですから、あまり時計時間にとらわれすぎるのではなく、自分の時間を測る物差しを必要に応じて持ち替えることも大事です。現代では「すぐに何かができるようになる」ことがもてはやされますが、それは時計時間の世界上での評価にすぎず、誰かよりも早く何かができなかったことで自分を責めたり、貶おとしめたりしてしまうことに違和感を覚えます。
あなたは、あなたの時間で進めば良い。
あなたは、あなたをゆっくり待てば良い。
時計時間を便利に活用しつつも、時としてあなたを効率という尺度で測ろうとする時計の呪縛から逃れることで、生きることはもっと豊かになるでしょう。
充実感や達成感を味わえるフロー状態
本書では時計時間を脱出するうえで重要な概念を二つ―「フロー」「不便」―ご紹介しています。
ここでは、一つ目の「フロー理論」について。「ゾーン」あるいは、「忘我」とも表現されます。心理学者のミハイ・チクセントミハイが提唱したフロー理論では、人が最も集中し充実感を覚えられる「フロー状態」について説明されています。
フロー状態は、活動に深く没入し、自分の力を最大限に発揮しているときに感じられるもので、スポーツや音楽、学習、仕事など、さまざまな活動で経験できます。
チクセントミハイは、この状態にいるときの人は「他のことが気にならず、時間の感覚さえも忘れる」と述べ、内発的な充実感と達成感が得られると言います 。
スポーツ選手は、試合中やトレーニング中にフロー状態に入ることが多く、よく「ゾーンに入る」とも呼ばれます。たとえば、プロのバスケットボール選手が集中して連続でシュートを決めるときや、マラソンランナーがリズム良く走り続けて疲労を感じないでいるときがフロー状態です。周りの観客の声や時間の感覚が薄れ、パフォーマンスに完全に集中できるのです。
演奏家も、パフォーマンス中にフロー状態に入ることがあります。ピアニストが複雑な曲を演奏しているときに楽譜を意識せず、自分と音楽が一体化しているように感じる瞬間などが一例です。練習や演奏中に、感覚が研ぎ澄まされるのです。
その他にもプログラマーが難しいコードを組むとき、デザイナーが自分のデザインに集中するとき、料理人が調理や盛りつけをするとき、学生が勉強に没頭するときなど、日常でフロー状態を味わうことはよくあります。
クロノス時間とカイロス時間の使い分け
古代ギリシャの人々は時間の概念には、「クロノス時間」と「カイロス時間」の二つがあると考えていました。
クロノス時間とは、直線的で客観的に計測できる時間のこと。つまり、先ほど私たちが考察した時計時間ですね。
一方でカイロス時間では、より主観的な時間の体験が重視されます。私たちは圧倒的にクロノス時間に基づいて行動していますが、「いまこの瞬間を大切にする」カイロス時間を日常に取り入れることも大切です。
先ほど述べた通り、人生を決定づける機会や忘れ難い経験の多くは一瞬のものです。その一瞬の煌めきを逃さないように、カイロス時間という時間の捉え方を持っておきたいものです。
暦を細かく「感じる」ことで、あくせく働く毎日を途中下車するイメージも持っておきたいものです。
アボリジニたちが独自の時間を持っていたことについて触れましたが、独自の時間を持っていたのは日本人も同じ。立春や冬至など春夏秋冬を24に等分した二十四節気や、それをさらに約5日ごとに分けた七十二候が存在します 。七十二候では、季節の移ろいに合わせて変化する植物や動物たちの様子が表現され、農作を進めるうえで欠かせないものでした。
自然の移り変わりに合わせて、私たちも立ち止まり、季節折々の景色を楽しんだり、旬のものを味わったりする豊かな時間を大切にしたいと思わせてくれます。