ふとした瞬間、「さみしい」と思うのは誰でも経験することですが、人はなぜ「さみしさ」を感じるのでしょうか。脳科学者の中野信子さんは、「さみしさ」は、人類が生き延びるために必要な「生存戦略のひとつ」と説きます。ではなぜ「友だちがいないこと」や「一人ぼっち」でいることが「よくないこと」のように扱われるのでしょうか。子ども時代から刷り込まれてきた呪縛の正体を解き明かします。
※本稿は、中野信子著『「さみしさ」に負けないための脳科学』(アスコム)より一部抜粋・編集したものです。
生きるためのセキュリティシステム
大人になると、「さみしくなってしまうのは心が弱い人間だからだ」と自分を責めてしまう人が多いかもしれません。
でも、それは違います。
さみしさを感じるのは心が弱いからではなく、「孤独な状態は危険である」ことを、脳が不快な感情を生じさせることで知らせているからです。
生物学的な観点から「適者生存」を考えると、自然のなかで生き抜く強い肉体を持つのと同じくらい、自身の生存に対する危険や、種の存続の危機を知らせてくれる 「さみしいという感情」を持つことは重要だったのです。
さみしいという心の痛みを伴う感情をとおして危機を感じることができたから、人類は生き延びることができたともいえるでしょう。
いわば、さみしさは、人類にとって生存戦略のひとつであると考えられます。
現代社会においては、ポジティブな感情こそが善で、さみしさなどのネガティブな感情は悪であり、とにもかくにも、ポジティブな感情へ切り替えることがいいとされているように思います。
でも、さみしいという感情は生きるためのセキュリティシステムであり、なくすことはできないものなのです。
さらに、さみしさを感じる度合いは人によって大きく異なりますが、さみしさに対する感受性の差異もまた、人類が生き延びるうえでは必要だったといえます。
さみしさに苦痛を感じ、他人とのつながりを維持しようとする人がいる一方で、仲間とのつながりを自ら断ち、未知の世界へ出て行くことを厭わない人が存在するからこそ人は多様性を保ち、絶滅することなく生き延びてきました。
さみしさを感じるのは、人が進化してきた証なのです。
わたしたちの遺伝子には、他人とつながっていない状態の不快・不安感が組み込まれていて、今日まで受け継がれてきました。ですから、さみしさを感じるのは、他人とのつながりを求める生物としてあたりまえのことなのです。
さみしいのはその人の責任ではなく、その人が劣っているわけでもなく、むしろ脳が正常に機能している証拠といえるでしょう。
「友だちがいないのは悪」 という刷り込み
ぼっちをもっとも強く意識させられ、生きづらさを感じさせられる場所が、学校ではないでしょうか。
特にそう思わせられるのは、小学校・中学校時代かもしれません。
なぜなら、親や先生たちのぼっちへの見方が固定されていることに加え、人の流動性が低く、自分が所属している場所を移動・変更することが非常に困難な環境だからです。
学校生活のなかでは、友だちが多いことがいいとされ、友だちがいないことはまるで悪いように扱われる場合が多いかと思います。
自宅でも学校でも、大人たちから「友だちと仲良くしなさい」「友だちをたくさんつくりましょう」といわれ、事あるごとに「友だちできた?」「友だちと仲良くできている?」「いま一番仲のいい友だちは誰?」といった質問を何度も受けて育ちます。
こうした「友だちありき」の一問一答をくり返すことで、多くの子どもたちの脳内にそれが刷り込まれ、「友だちがいないとダメなのだ」「友だちがいないと親や先生を不安にさせるのだ」と思い込むようになります。
高学年になり、1人で過ごすことが平気になっても、1人で本を静かに読んだり、1人でお弁当を食べたりしているだけで、まわりから「友だちがいないのは、みんなから嫌われているからでは」と疑われてしまうこともあります。
集団で活動し、共同作業のなかで協力し合って問題を解決することは社会生活に必要なことであり、学校生活をとおして身につけていくべきスキルだとは思います。
しかし、友だちをたくさんつくることは、学校生活の本来の目的なのでしょうか?
これは、議論の余地があるかもしれません。
社会人になってからは、友だちという存在をそれほど強く意識させられることは少ないでしょうが、学校生活のなかでは、友だちの有無が突然クローズアップされることがあります。とても面倒な瞬間ですよね。
例えばそれは、学校行事や体育の時間、また具合の悪くなったときなどです。先生から、「2人1組でペアを組みなさい」「好きな人同士でグループになりなさい」「保健室(もしくは自宅)にいる〇〇さんに、一番仲のいい人がプリントや荷物を持っていってあげて」などと指示されるシーン。そんなとき、わたしがそうだったように「仲のいい友だちがいない」場合は、ちょっと面倒なことになります。
まあ、大して困りはしないのですが、先生が荷物やプリントを保健室に届けてくれたり、「余った人同士でペアを組みなさい」という指示に従ったりするという解決策がとられることになり、やや気まずい。
こうした出来事が繰り返されると、「友だちのいない人=人に迷惑をかけるやつ」「余りものはやっかい者だ」 とみられてしまうというわけです。
学校は、友だちという社会関係資本の多寡に重きを置いてヒエラルキーをつけようとする、非常にアンフェアな環境と考えることもできます。
学校生活において無意識のうちにそのような価値観が刷り込まれ、それが固定されてしまった人がいるのなら、とても残念なことです。学校は、数多く存在する集団のうちのたったひとつでしかなく、そこでの基準が全世界に通用する基準ではないからです。
「他人に迷惑をかけるな」という教育の呪縛
さみしさに苦しんでいる人の多くは、その苦しみを1人で抱え込んでしまっていることでしょう。
さみしいという気持ちを誰にも打ち明けられない、どう伝えていいかわからないということが、問題をより深刻にしていることがしばしばあります。
「わたしはさみしい」と他人におおっぴらにいうことは、恥ずかしいことだという刷り込みもあるのかもしれません。
「さみしい」といえば、心の弱さを吐露するようなもので、そうして他人の関心を引いたりするような「イタイ人」 とみられかねない。承認欲求の塊のように思われるのは嫌だ。だから、さみしいという感情は、自分で解消すべきだという風潮になってしまうのかもしれません。
「さみしいけれど、それは自分の勝手な感情なのだから、誰かを巻き込んで迷惑をかけてはいけない」「他人の時間を、自分の気持ちの処理のために使わせるのはいいことではない」などと、つい遠慮してしまうのではないでしょうか。
なぜそう思ってしまうのかを解明するうえで、日本の家庭教育もその一因として考慮する必要があります。
日本における保護者の多くは、子どもに対し、他人に抜きん出て能力を高めることよりも、組織や共同体から外れない人になることを望んでいるということを示唆する統計があります。「他人に迷惑をかけない人になってほしい」と願う親が、他国と比べてとても多いのです。
周囲への配慮を欠かさないことは、長いあいだ日本人としての美徳とされてきました。そのため、多くの日本人は、個よりも社会を優先するマインドセットを有するように育てられてきているといえます。
しかし、海外の子育てでは、「人に騙されてはいけない」「困っている人がいたら助けよう」「自分の得意なことでトップを目指せ」など、各国の文化を反映した声かけが強調されます。
子どもに対しても、「子どもは他人に迷惑をかけながら育つもの」という、そもそもの認識があるためか、誰かが自分勝手な行動を取ったり、あるいは互いに頼ったり頼られたりすることに対して寛容なことが多いようです。
さみしいと打ち明けることは迷惑をかけること?
内閣府が行った「小学生・中学生の意識に関する調査(平成25年度)」のなかで、保護者を対象とした「教育で重視すること」の調査結果は、次のようなものでした(複数回答)。
第1位 「基礎学力をつけること(69.6%)」
第2位 「友達と仲良く過ごせること(65.7%)」
第3位 「礼儀・規律や心の持ち方を学ぶこと(57.9%)」
第4位 「考える力や創造力・表現力をつけること(51.8%)」
第5位 「音楽・芸術・スポーツや自然体験・社会体験など幅広く学ぶこと」(23.8%)
第6位 「安全で安心して勉強できること」(13.8%)
第7位 「希望の学校に入れる学力をつけること」(6.8%)
この調査結果を見ると、保護者は「基礎学力をつけること」と同じくらい、「友達と仲良く過ごせること」を子どもに望んでいることがわかります。
さらに、創造力や表現力を高め幅広く学び体験することよりも、友だちと仲良くすることや、礼儀・規律を守ることを重視していることが読み取れます。
ですが、わたしたちの誰もが、他人にまったく迷惑をかけずに生きていくことは不可能です。
また、他人に迷惑をかけずに生きようと自分を厳しく律すると、他人に迷惑をかける人に対して向ける視線は厳しいものになります。「自分は我慢をしているのに、この人はなんだ!」という気になるのです。
いうまでもなく、わざわざ人に迷惑をかけるような行動を取るのはナンセンスですが、さみしいと打ち明けることが迷惑をかけることだという思い込みは、再考の余地があるのではないかと思います。
さみしいということを、信頼できる人に打ち明けるだけで救われることがあるかもしれません。身近に打ち明けられる人がいないなら、SNSで気持ちを発信してみたり、ラジオやWEBなどのメディアにメッセージを投稿してみる、あるいは信頼できるプロのカウンセラーに相談したりすることも一案です。
「さみしさに1人で耐えることが美徳」と考えるのは、わたしは違うと思います。
さみしさは非常に強い感情であり、長時間抱え込んでいると、心身に様々な悪影響を及ぼすこともあります。
そして本当に心が弱ってしまうと、悪意を持った人が寄ってきやすくなり、騙されやすくなるという弊害もあります。
さみしさで心が完全に弱ってしまう前に、日頃から、頼ったり頼られたりしながら、「お互い様」と言い合える人間関係を少しずつ築いたり、ぶらりと立ち寄って気兼ねなくいろいろな話ができるような行きつけの店を探してみる、そんな工夫も必要なのかもしれません。
「迷惑をかけるな」という教えに縛られて、さみしさを解消する術を持たず、1人で耐えもがくことだけが、唯一の手段ではないと気づくべきなのです。