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谷川浩司が語る「大名人」大山康晴の真髄 全タイトル戦50回連続出場の凄さ

谷川浩司(棋士)

2026年09月09日 公開

将棋界に「大名人」と呼ぶにふさわしい棋士がいるとすれば、その一人が大山康晴十五世名人でしょう。
名人通算18期をはじめ数々の記録を残し、世代を超えて第一線に立ち続けた大山十五世名人。その強さの本質は、タイトル数だけでは語れません。公式戦で幾度も盤を挟んだ谷川浩司十七世名人が、「4つの世代に勝つ」強さや独特の終盤術、空前絶後の「全タイトル戦50回連続出場」を振り返りながら、自らが肌で感じた巨星の風格と、勝負師・大山康晴の真髄を解説します。

※本稿は、谷川浩司著『名人論 稀代の天才たちはいかに戦ったか 』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

巨星・大山康晴十五世名人

名人とは何か、と問われた時、私がまず思い浮かべるのは、大山康晴十五世名人の佇まいである。

私より先輩の永世名人で、戦前からプロ棋士であり、かつ私が公式戦で対局を重ねた(22局・不戦局2を含む)棋士は大山十五世名人しかいない。木村義雄十四世名人とは何度かお会いしたが、公式戦での対局はない。中原誠十六世名人とは公式戦で100局近く対局しているが、中原先生は戦後生まれである。

名人たる者の風格について、肌感覚で最も強烈に印象付けられたのが大山先生だった。もちろん、名人のあり方は時代によって少しずつ変わるし、棋士それぞれに名人観の違いもある。それでもなお、私には大山先生こそが、幼少から抱いてきた将棋の名人像と最も重なる人物だった。

名人位だけで通算18期と、実績が抜群であることは言うまでもない。しかし、大山先生の偉大さは単にタイトルの数や在位の長さだけではなかった。その存在には独特の重みがあった。盤上の技術だけでなく、盤を挟んだ空気そのものまで支配してしまうようなところもあった。

 

4つの世代に勝つ

私は以前から、「大名人」と呼ばれる人には1つの条件があると考えている。それは、4つの世代に勝つことである。

自分より2つ上と1つ上の世代に勝ち、同世代に勝ち、1つ下の世代にも勝つ。さらにその下の世代とも戦う。名人というのは、だいたい20代前半で第一人者を破って誕生することが多い。そうすると、そこから長く第一人者であり続けるためには、前後4つの世代にまたがって勝たなければならないことになる。

その意味で、大山先生はやはり特別だった。木村義雄名人から名人位を奪って第一人者となり、その後、塚田正夫先生や升田幸三先生らと争い、さらに二上達也先生や加藤一二三先生といった一世代下の棋士たちを退け、最後には20歳以上離れた中原誠先生と勝負を続けた。普通であれば、2つ下の世代に第一人者の座を譲った時点で第一線から少しずつ退いていくものだが、大山先生の場合はそこからもなお長かった。これはちょっと他の棋士と同じようには語れないところがある。

大山先生の将棋の特徴として、まず思い浮かぶのは終盤の強さである。もっとも、終盤が強いというだけなら、他にもそういう棋士はいる。大山先生の場合は、勝負の終わり方そのものが独特だった。普通の棋士の将棋なら、ここで勝負がついたという局面からでも、もうひと山もふた山もあった。こちらが優勢になったと思っても、まだ終わらない。攻めが決まったように見えても、まだ届かない。そういう将棋が非常に多かった。

「大山の終盤は2度ある」といった言い方もされるが、それは単に粘るということではない。受けの技術が豊富であることはもちろんだが、その前提として、相手がどう攻めてくるかをかなり早い段階で見抜いていた。相手の狙い筋を読んで、その1手前に受ける。そうすると、攻めている側は、今まで積み上げてきた読みを最初からやり直さなければならなくなる。

大山先生の将棋の根底には、「人間は必ず間違える」という考え方があったように思う。終盤で複雑な局面になれば、どれほど強い棋士でも間違えることがある。ならば勝負を簡単に終わらせず、長く難しくしていけば、最後には相手の方が先に誤る。そういう確信が大山先生にはあったのか。自分の方が終盤では強い、長くなればなるほど自分に分があるという自負がなければ、なかなか取れない作戦である。

そのことは、振り飛車を多く指されたこととも関係がある。飛車を左側に移動し、玉を右側に囲う振り飛車は、飛車のいる側でまず戦いが起こり、そのあと飛車を打ち込んで横から攻めるという、二段構えの戦いになりやすい。居飛車の将棋に比べて、中終盤のねじり合いが長く続く。そういう展開は、経験と勝負勘のある棋士に向く面がある。

大山先生は若い頃には居飛車も多く指されていたのだが、年齢を重ねる中で、より自分の持ち味が出る戦い方へと重点を移していったのだろう。大山先生の将棋には、「最初のチャンスは見送る」「勝負を一局の中で何度もつくり直す」という特徴があった。その意味で、振り飛車という戦法はよく合っていた。

振り飛車党ながら、お互いが飛車を振る相振り飛車はほとんど指さなかった。大山先生は「振り飛車はよく知っているので、相手が振ったら自分はいつもと逆の居飛車で戦えばいい」という考え方だった。

 

全タイトル戦50回連続出場

大山康晴十五世名人の持つ「全タイトル戦50回連続出場」という記録は、羽生善治さんの7冠独占、藤井聡太さんの8冠独占と比べると、一般にはあまり広く知られていないように思う。

羽生さんの7冠、藤井さんの8冠は、将棋界に存在するタイトルを同時にすべて保持したという、誰の目にもわかりやすい偉業である。それに比べると、「50回連続出場」という言葉は、少し地味に聞こえるかもしれない。しかし、プロ棋士の観点からいえば、これはとんでもない、まさに空前絶後の記録なのだ。

この記録は、1957年5月7日に開幕した第16期名人戦七番勝負、大山康晴名人対升田幸三九段戦から始まる。この時、大山先生は34歳であった。番勝負は同年7月11日まで行われ、大山先生は升田先生に2勝4敗で敗れ、名人位を失った。普通なら、これは自分の時代の終わりにもなり得る。ところが、大山先生の場合は違った。

この名人戦敗北が、将棋史上前人未踏の全タイトル戦50回連続出場という偉大な記録の出発点になったのだ。つまり、この名人戦敗北を含めて50回連続で、その当時あったすべてのタイトル戦において、タイトル保持者または挑戦者として出場し続けたのだ。

その記録の出発点が失冠した1957年の名人戦であったところが、いかにも大山先生らしい。大山先生は名人失冠後もタイトル戦の舞台に残り続けたのだ。

まずは1957年12月の九段戦(当時の3大タイトル戦)で升田幸三九段・名人に挑み、2勝4敗で再び升田先生に敗退した。しかし、翌1958(昭和33)年3月の王将戦では4勝3敗で升田王将・名人・九段に勝ち、当時の3大タイトルの一つ、王将を獲得した。

続いて同年7月の名人戦でも升田名人に挑戦するが、これには敗れる。しかし、続く同年12月の九段戦では升田幸三九段・名人に4勝2敗で勝ち、九段位を奪取する。そして1959年6月に升田幸三名人に挑戦し、4勝1敗1千日手で名人を奪回、名人、九段、王将の全冠を制覇、3冠王となった。

ここからは大山先生の破竹のタイトル戦連勝が始まる。タイトル戦に出場し続けるだけでなく、1958年の九段戦から1963年の第1期棋聖戦まで17回連続タイトル戦で防衛、または獲得した。さらに1963年6月の名人戦防衛から1966年6月の名人戦防衛までタイトル戦19回連続で防衛、または獲得している。これも含めて1967年12月の第6期十段戦まで、大山先生はすべてのタイトル戦にタイトル保持者または挑戦者として50回連続で出場を続けたのだ。

50回で途切れたのは1967年で、大山先生が山田道美八段に棋聖位を奪われた後、翌年の棋聖戦の挑戦者にはなれず、棋聖戦は山田道美棋聖と中原誠五段との間で争われたためだ。いずれにせよ、この間に大山先生は当時あった名人、九段、王位、王将、棋聖の5冠王にもなり、約10年にわたって絶対的な将棋界ナンバーワンとして君臨した。

著者紹介

谷川浩司(たにがわ・こうじ)

棋士 十七世名人

1962年生まれ。神戸市出身。
5歳で将棋を覚える。73年4月、5級で若松政和八段に入門。76年12月、四段。82年八段。83年6月、加藤一二三名人を4勝2敗で破り、史上最年少(当時)の21歳2カ月で名人位を獲得。84年、九段。97年、羽生善治名人を4勝2敗で破り、2度目の復位。通算5期で十七世名人の資格を得る。2002年7月、公式戦通算1000勝。25年1月、公式戦通算1400勝を達成。竜王4、名人5など、タイトル獲得数は計27。棋戦優勝は22。12年12月より17年1月まで、日本将棋連盟会長。14年、紫綬褒章受章。

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