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生き方

会社を辞めた恐怖で描いた「異質な絵」 あてもなく行った北海道で作家が取り戻したもの(連載「描き屑の瞬き」第4話)

いのうえまりこ(画家)

2026年09月19日 公開

会社を辞めると決断したあの日、押し寄せてきたのは恐怖だった――。アルコールインクアートで抽象画を描く画家のいのうえまりこさんは、2年前まで会社員として働いていました。迷いながらも退職願を出し、その後向かった先は北海道。
「描き屑の瞬き(かきくずのまたたき)」は、いのうえさんが日常のなかで心に留まった景色や感情を、絵とエッセイで綴る連載です。第4話となる今回は、夏真っ盛りの8月に見舞われたまさかのトラブルをきっかけに、会社を辞めたあの頃を振り返っていただきました。

 

立ち止まった夏の日

2026年の夏。
朝起きて自転車に乗ろうとしたら、タイヤがパンクしていた日があった。
ひとまず自転車を使わずに出かけて、家に帰ってきたその夜。今度は冷蔵庫がまったく冷えなくなっていた。
ネットで調べて、自分でできそうなことを一通り試してみた。朝になって冷凍庫を開けると、ドロドロに溶けたアイスが、そのまま残っていた。

家から少し足を延ばしたところに電気屋やリサイクルショップが何軒かある。新しい冷蔵庫を探しに行きたい。でも、自転車は使えない。この暑さの中を徒歩で動き回る気にもなれない。

脳みそもパンクしてフリーズした。
すべてが嫌になってとりあえず寝た。
一日中、布団の中で過ごした。
そんな8月の夜中にこの記事を書いている。

ちょうど2年前、これ以上にフリーズしていた時期があった。
2024年8月末、会社を辞めた。
ずっと迷い続けていたけれど、いよいよ今がその時だと思える瞬間が来て、決断した。

次に何をするかも決めず、転職先も探さないまま辞めた。本当はひとまず転職でもよかったかもしれない。でも、ずっと会社員をやってきた自分の生き方に、少しずつ疑問を持ち始めていた。

仕事が好きで、頑張れていた時期も何年もあった。任されることも増えていった。管理職にもなった。経済的にも、大きな不満はなかった。

外から見れば、きっと順調だったのだと思う。けれどその分、心がどこか別のところに持っていかれるような感覚が、少しずつ増えていった。

管理職になってからは、自分の仕事だけでなく、周りの人を育てることも求められるようになった。人を評価する必要も出てきた。仕事が終わってからも、会社のことを考える時間が増えていった。

みんな頑張っているから。
休日も関係なく、会社のために動いてほしい。
もっと会社への思いを持ってほしい。

そんな話が役員や他の管理職の人との会議で出るたびに、私は少しずつ言葉をなくしていった。そこまで会社に気持ちを預けることが、どうしてもできなかった。ここにいても、もうこれ以上どう進めばいいのかわからなくなっていた。

そんな日々の中、関わっていたプロジェクトが唐突に終わりを迎えた。仕事を抱えている最中だと、途中で投げ出す罪悪感が勝って、辞めることはできないと思う。だから、今しかないと思った。

ほとんど突然の決断だった。
とても怖かった。

会社を辞めて、いったん立ち止まって考えよう。そう思っていたのに、いざその時が来ると、未知のものへの恐怖でいっぱいだった。
それでも、ひとつだけ心に決めていたことがあった。
北海道に行くことだった。

 

「何もしないための場所」へと向かった

会社を辞める数年前、近所に住んでいた友人が、転職を機に職場の近くへ引っ越していった。会う機会が減って、元気にしているかなと思いSNSを覗いてみたら、そこには、広大な大地や牛の写真があった。

仕事はどうしたんだろうという疑問より先に、その景色たちに心を持ってかれていた。
後から聞くと、新しい仕事はどうやら合わなかったらしい。すぐに辞めて、次の仕事を決めないまま、同じく仕事を辞めた人の紹介で北海道の農園に身を寄せることになったという。

稚内から車で一時間ほどの、天塩という町にある農園。北海道の中でも北の方にある、初めて聞く名前の場所だった。
その日々が、淡々とSNSに載っていた。
とても美しい景色と時間が流れていた。

私もいつか、ここへ行こう。
その時から、密かにそう決めていた。

2023年の年末から、私はまったく絵が描けなくなっていた。SNSへの絵の投稿も止まったまま。仕事への悩みが私生活にまで影響して、身動きが取れなくなっていた。
辞めると決めて、実際に動き始めたそのあと、少しだけ息ができるようになった。

やっと、ぽろっと絵を描いた。
今までの私は、アルコールインクの鮮やかさを生かした、力強い絵を描くことが多かった。
そのとき描いた絵は、どこかおぼろげで、頼りなくもみえた。それでも、そのときの私にできる精一杯で、前に進むための一歩のような絵だった。


タイトル「漂う船に乗る」

そして、北海道へ行った。
その時間を経て、私は展示やワークショップなど、絵の活動を少しずつ再開していくことになる。

あれから私は一度ならず、たびたび北海道を訪れている。北海道で重ねてきた時間については、これから少しずつ書いていけたらと思う。
山と海と、牛たちと暮らす日々。
東京での暮らしと比べれば、不便で何もない。
その「何もなさ」が、必要だった。
何もしない。何も決めない。ただそこにいる。

まる一日以上止まっていた冷蔵庫が、今はなぜか動き始めている。

いろいろ調べていたら、中身を詰めすぎると冷えにくくなることがあり、7割くらいに整えるといい、と書いてあった。もともとそんなに詰めているつもりはなかった。

これが原因かはわからないけれど、ほとんど使っていない調味料や冷凍したまま食べていないものを捨てた。ドロドロになっていたアイスは、いつの間にかサクサクになっていた。

いろんなものを詰め込みすぎている。
そのことにも気づかない。
もしかしたらまた止まってしまって、今度こそ動かなくなるかもしれない。
その時はその時でタイヤを新しくした自転車で、次の冷蔵庫を買いにいけばいい。

あれからまる2年。
止まったり動いたりしながら
この暮らしを続けられるところまで
続けていこうと思う。


今回使用した画材:アルコールインク、オイルパステル

著者紹介

いのうえまりこ

画家

東京生まれ。芸術系のクラスのある高校に進学し、早くから美術を学ぶ。武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科を卒業。
10年以上絵を描くことから離れたのち、2020年末より制作を再開。現在はアルコールインクを主な画材とし、抽象表現を中心に制作している。
「自身の内側に気づくこと」を主軸に、自己対話を重ねながら描く。過去に置き去りにしてきた感情や記憶、そして今この瞬間の感覚に触れ、その輪郭を探るように表現を続けている。
その中で生まれたものが、誰かの中にも小さな変化を残していくことを願っている。
不定期でワークショップや展示会を開催中。詳細はSNSアカウントを参照。
https://www.instagram.com/ino_artworks/

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