丸の内・大手町 誕生秘話「地名で読む江戸の町」
2013年07月09日 公開 2024年12月16日 更新
地名の由来を探れば、過去の社会制度や事件、人々の生活が身近に見えてくる。ということで、江戸時代の古地図をもとに、ビジネスマンにおなじみの東京・丸の内&大手町にアプローチしてみましょう。
丸の内(千代田区)大名小路
東京駅丸の内周辺は、いまやロンドンのシティ、ニューヨークのウォール街に並ぶ世界の金融・情報センターに成長している。丸の内とは、皇居外苑と東京駅にはさまれた地域を指す。
江戸時代には、この一帯は江戸城の本丸に接し、外堀に囲まれ、多くの大名が、将軍への忠誠を表すための証人(人質)を住まわせていた地域であった。
また、大名自身が江戸入りの際の宿所にするための邸宅を建てていたため、「大名小路」と呼ばれていた。大名たちは莫大な造成費用を投入し、競って豪壮な邸宅を建て、威勢を誇示していたのである。
『徳川実紀』には、「松平下野守忠郷の邸に初て臨駕あり。水戸宰相 頼房卿、藤堂和泉守高虎(忠郷の岳父で後見人)御先にまかりむかへ奉る。兼日この設として御成門経営す。柱には金を以て藤花をちりばめ、扉には仙人阿羅漢の像を鏤る。精緻描絵のごとし。
当時の宏麗壮観その右に出る者なかりければ、年へて後までも衆人此門を見に来る者日々多し。字して日暮らし門とはいへり」と蒲生忠郷(会津藩60万石)が、この日のためにわざわざ御成門(将軍専用の門)を建て、その壮麗さは一日中見ていても飽きないほどであったことが記されている。
また『徳川実紀』にはこうした豪邸では、国持ち大名はたいてい2階造りの門に彫刻を飾り、5万石以上の大名邸は、申し合わせたように金襖を立てていたとある。ほとんどが5万石前後かそれ以上の身分であった大名小路の大名邸は、大なり小なりこういう造りであったと推測される。
江戸っ子が「外の津にないは大名小路なり」と自慢した、天下の総城下の象徴は、その後、安政2年(1855)の安政の大地震による大火によって消滅してしまった。天下の総城下の象徴である大名小路が、これも江戸の象徴である大火で消滅したのは、なんとも皮肉なめぐり合わせである。
兵営からオフィス街へ
明治時代に入り、政府の当面の課題は国軍の創設であった。戊辰戦争(1868~69)が終わると、政府にとって、東征に参加した各藩の藩兵は邪魔な存在になってきた。そのため政府は、明治5年(1872)11月28日、「募兵に関する詔書」を出し、翌6年1月10日に「徴兵令」を発布した。
「国民皆兵」をスローガンにして生まれた国軍は、東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本の六鎮台と、営所14が設置された。東京・大阪鎮台が各3師管、他の4鎮台が各2師管に区分され、全国14師管が設置された(大江志乃夫『徴兵制』)。
この丸の内一帯は、工兵隊(パレスホテル付近)、陸軍武庫司(東日本旅客鉄道本社・日本交通公社付近)、輜重隊(三菱電機・三菱重工付近)など、江戸時代の武士の町を引き継ぎ、いっそう「軍の町」としての色彩が強まった。
このように、江戸時代、大名屋敷が連なっていた江戸城の東側は、維新後、明治政府の軍事的中枢地域となったのである。
明治23年(1890)、岩崎弥之助が払い下げを受けたため、このあたりは「三菱ヶ原」と呼ばれる空き地になった。
その後、三菱のもとで、ロンドンの市街地をモデルとした煉瓦造りのビル建設が進められ、大正3年(1914)に東京駅が完成したのち、丸の内界隈は事業所の新設・移転が相次いだ。
戦前の丸ビル、郵船ビル、第一相互ビルなどに続き、戦後は新丸ビル、大手町ビル、東京ビル、日本ビルなどをはじめ、銀行や各種企業のビルなど巨大なビル群の建設ラッシュが続き、わが国最大のオフィス街として発展した。
日本経済を支える大企業の多くが、現在もこの地区に集中している。