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丸の内・大手町 誕生秘話「地名で読む江戸の町」

大石学(東京学芸大学教授)

2013年07月09日 公開 2022年03月02日 更新

大手町(千代田区) 本丸正面だった大手門

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、徳川家康は天下の支配権を握り、同八年、征夷大将軍に任ぜられ、江戸は250万石の大名の城下町から一躍全国の中心となった。

このため江戸城修築の必要に迫られ、慶長11年(1606)から藤堂高虎の縄張り(設計)により大修築が行われた。堀はらせん状に江戸市街の大半を囲みながら浅草橋まで延びたが、その起点となったのが大手門である。

この大手門は、江戸城本丸への正門にあたり、内桜田・西の丸大手の御門(いずれも千代田区)とともに三番所と呼ばれた。

元和6年(1620)、伊達政宗が黄金2676枚、人夫42万3000人余をもって、大手門の左右13町(約1400メートル)の石垣と防御用の空き地である枡形を持つ城門を改修した。

城門は高麗門と渡櫓とに分かれ、高麗門をくぐると城壁に囲まれた四角い広場(枡形)があり、右正面に渡櫓が存在する。警備は、城門中最も厳重で、鉄砲30・弓10・長柄槍20・持筒2・持弓2組を常備し、10万石以上の譜代大名が警備にあたった(『御府内備考(ごふないびこう)』)。

大手門は明暦3年(1657)の大火(明暦の大火・振袖火事とも)によって全焼し、また渡櫓もたびたび災害に遭い、第2次世界大戦によっても全焼した。その後昭和42年(1967)に復元された。高麗門と石垣が現存しているが、この門は、明暦の大火の翌年に再建されたものである。

 

「下馬将軍」と伊達騒動

万治3年(1660)、陸奥国仙台藩で伊達騒動といわれる家中騒動が起こった(仙台藩では寛文事件ともいう)。この伊達騒動は「大手町」と深いつながりがあった。

仙台藩では万治3年、藩主伊達綱宗の隠居後、2歳の亀千代(綱村)に家督が譲られ、同時に綱宗の叔父伊達兵部少輔宗勝(政宗10男)が亀千代の後見を命じられ、実権を握ることとなった。

奉行の原田甲斐らと結び藩権力の集権化をはかる兵部と、自主性の強い地方知行制を維持しようとする伊達氏の一門衆が対立し、ここに伊達騒動と呼ばれる家中騒動が引き起こされた。

伊達一門の伊達安芸と伊達式部間の所領の境界紛争を安芸が幕府に上訴したため、伊達安芸および柴田外記・原田甲斐・古内志摩の三奉行が幕府の審理に際して大老酒井忠清の屋敷に召喚された。

ところが寛文11年(1671)、甲斐は突然安芸を斬殺し、甲斐もまた外記・志摩らによって斬殺されたのである。重傷を負った外記もその夜に死亡した。

幕府は兵部を改易し、土佐松平家に預け、その子宗興も豊前小笠原家へお預けとし、綱宗の庶兄・田村隠岐(右京)は閉門に処した。亀千代改め陸奥守綱基(寛文9年元服。のちの綱村)には伊達62万石の領知を安堵し、後見を解除した。

甲斐の四人の子息は切腹、孫は殺された。こうして騒動は終結したのである(小林清治『伊達騒動と原田甲斐』)。

この際、伊達安芸らが召喚された酒井忠清の屋敷が「大手町」にあった。忠清は四代将軍家綱時代の老中首座(大老とも称される)であり、

文治政治への移行期の指標となる末期養子(武家の断絶を避けるため、当主の危篤時に緊急に願い出る養子縁組)の許可、殉死の禁止、証人制(大名から幕府への人質)の廃止などの政策を幕閣の中心となって展開し、将軍政治を支えた。

忠清は平時体制に対応した幕藩制的秩序をつくりあげ、それを巧みに動かして、「寛文・延宝の治」と言われる安定した一時期をつくった中心人物であった。

しかし一方では、伊達騒動・越後騒動の処理と、家綱没時に画策された宮将軍擁立の問題が失政として指摘されている(林亮勝「酒井忠清」、北島正元編『江戸幕府 上巻』所収)。この忠清の屋敷は大手門下馬札の前にあり、権勢の強かったことから忠清は、「下馬将軍」と呼ばれていた。

以上のように、伊達騒動は「大手町」を舞台とする一大事件であった。その後、安永6年(1777)初演の歌舞伎狂言「伽羅先代萩」で有名になり、

大槻文彦『伊達騒動実録』(明治42年〈1909〉)、田辺実明『先代萩の真相』(大正10年〈1921〉)、真山青果『原田甲斐の最期』(昭和6年〈1931〉)、山本周五郎の小説『樅の木は残った』(昭和30年〈1955〉)などによって、広く後世に伝えられている。

江戸時代、大手門外の大名屋敷が建ち並ぶ大名小路の北部には、播磨姫路藩酒井氏・越前福井藩松平氏・出羽鶴岡藩酒井氏・豊前小倉藩小笠原氏らの上屋敷があった。

大手門周辺が「大手町」と呼ばれるようになったのは、明治5年(1872)以降であり、当時の戸数は6、人口は143人であった(『東京府志料』)。

その後、明治30年代に大蔵省・内務省・内閣官報局・憲兵司令部・会計検査院・東京大林区署・私立商工中学校などが建設され、昭和四五年(1970)に現在の大手町1、2丁目となる。

主として戦後に開発された新しい町、大手町には、大手銀行の本店やお堀のカルガモで一躍有名になった三井物産を含む大手商社も多く、ビジネス街の中心を担っている。

 

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