山本覚馬の殖産興業と人づくり~京都を近代化した会津人の思い
2013年08月16日 公開 2021年04月15日 更新
「人づくり」の種はかくて芽吹いた
さらに覚馬は明治以降、キリスト教に惹かれるようになります。維新後、それまでの藩のあり方が解体されていくに伴い、社会を支えていた儒教道徳体系がそのままの形では通用しなくなり、道徳的な混乱が各所で起こります。
会津の敗亡、わが身の障害、世の道徳の混迷という状況の中で揺れていた覚馬は、明治8年(1875)にアメリカ伝道教会の宣教医、M・L・ゴードンからキリスト教の教理を中国語で説いた『天道溯原』を贈られて、大きな衝撃を受けたのです。
覚馬は次のように書いています。
「私の胸中の疑問が、この本ですっかり氷解した。私は、最初は武芸をもって、次には法律をもって国家のために尽くそうとしたが願いは叶えられなかった。この本を読んで、人間の心を改善するためには、この宗教によるべきだとわかった」
以後、覚馬はキリスト教道徳の重要性に目覚め、新しい時代の道徳律をキリスト教に求めていくことになります。
ちょうどその頃、覚馬は新島襄と出会いました。新島襄は、列強に負けぬ日本を作るために、西欧の最新技術や事情を学ぶべくアメリカに密航し、アメリカで高等教育を受けました。
その過程で、西洋文明の核となっているのは「一国の良心となるような人々」の存在だと得心し、そのような人材を日本において育成すべく帰国していたのです。襄はキリスト教精神に基づいて人材を育成すべきだと考えていました。
覚馬は襄と大いに意気投合し、襄を支えて自らは結社人(理事長)となって、同志社の教育を推進していくことになるのです。
とはいえ、数多くの苦難を乗り越えてきた覚馬は、現実的な合理主義者でもありました。明治8年に設立された同志社英学校も、キリスト教を前面には出さず、近代文明の知識を学べることを表看板にしていました。
これは、まだまだキリスト教への拒絶反応が根強い時代、学校を早く設立するためにはそうすべきという覚馬の智恵でした。
覚馬自身がキリスト教の洗礼を受けたのも、明治18年(1885)5月のことです。キリスト教に惹かれるからこそ、信仰の道に入るまでにじっくりと時間をかけたのでしょう。
覚馬の影響を受けながら日本近代化への道筋を切り拓いていったのは、新島襄ばかりではありません。
「まず人材をつくるのが第一」という考えを抱いていた覚馬は、幽囚された薩摩藩邸でも同室者を集めて教え、また、京都府顧問になった後も自宅に若い青年たちを集めて講座を開き続けていました。
ここで学んだ青年たちの中から、後に大実業家となる田中源太郎、浜岡光哲、大澤善助、雨森菊太郎などが輩出しています。彼ら教え子たちは、覚馬の教えを胸に、京都の産業振興に取り組んでいきました。
象徴的なのは琵琶湖疏水事業でしょう。琵琶湖の水を京都まで引くための疏水ですが、明治18年に着工され、2436メートルもの第一トンネルを掘り抜いて、明治23年(1890)に完成します。
この疏水は大津と伏見を結ぶ舟運の路となり、水は潅漑用水として使われ、その水流は水車や水力発電に活用されました。
この疏水工事は掘削から水力発電所の建設まで、日本で初めて、すべて日本人の手で成し遂げられています。水力発電の電力は京都市中に引かれて工業の発展に大いに活用され、さらに日本初の電気鉄道の電源となりました。
京都電燈や京都電気鉄道、様々な銀行など民間活力による大型企業が続々と誕生し、それらの企業の社長を覚馬の門下生たちが務めます。京都は、活気に満ち溢れる日本一の近代産業都市になりました。覚馬が蒔いた「人づくり」の種は、着実に芽吹いていったのです。
覚馬は、幕末から明治に至る混迷の時代に、師や友と対話を繰り返し、何をすべきかを真剣に考え、そして考えるだけではなく、自ら実践していきました。
日本の針路がはっきりと見えていない混乱期に、産業振興と教育確立という日本が力を入れるべき2つの道筋を明確に示し、それを具体的なプランに落とし込んで、実現してみせたのです。
彼が近代日本において果たした役割の大きさを思う時、彼の障害も、会津藩から京都へという道程も、もしかすると天の配剤だったのではないかとすら思えてきます。
「己に与えられた天命を知り、それを果たすためにどんな境遇にあろうとも前向きに、全力を尽くす」。いまこそ私たちは、覚馬の不屈の精神に大いに学ぶべきではないでしょうか。