1. PHPオンライン
  2. ニュース
  3. 松下幸之助の『道をひらく』は、腹の底から出た“言葉”

ニュース

松下幸之助の『道をひらく』は、腹の底から出た“言葉”

楠木建(一橋大学大学院教授)

2014年07月17日 公開 2024年12月16日 更新

『人間・松下幸之助~明日への道をひらくヒント』より》

 

 松下幸之助の『道をひらく』は時代や国境を越えて、人々の仕事と人生に大変な影響を与えた名著である。僕も影響を受けた1人で、この本は自分自身の仕事生活の指針となっている。

 

リアリティがある言葉の深さ

 『道をひらく』を再読してみる。実に平易な言葉で自らのよって立つ思想と哲学が書かれている。その中身にしても、特別なことや独創的なことがあるわけではない。僕がとりわけ素晴らしいと思う節を取り上げても、冒頭の「道」に始まり、「素直に生きる」「さまざま」「是非善悪以前」「本領を生かす」「断を下す」「自分の仕事」……ときりがないが、いずれも言葉にしてしまえばごく普通のことを言っている。ちょっと気が利いた小学校の先生なら生徒に言って聞かすような話だ。あっさりいえば、「言われてみれば当たり前」のことばかりである。

 にもかかわらず、松下幸之助の言葉がここまで大きな影響をもつに至ったのはなぜか。もちろん経営者としての並外れた実績もあるだろう。しかし、偉大な実績を残した経営者は他にもいる。松下幸之助は、言葉において強烈なのである。

 松下幸之助の言葉が強いのは、それが腹の底から出ているからである。一言一言に実体験に根差したリアリティがある。フワフワしたところが。一切ない。余計なことは言わない。本質だけを抉り出す。経験の中で自らの血となり肉となった真実だけを直言する。だから言葉が深い。野球の投手に喩えれば、直球一本勝負。やたらと球が速い。しかも、重い。

 松下幸之助と同時代を生きた評論家の小林秀雄が味わい深いことを言っている。

 「僕は、理想なんて抱いたことはありません。たいへん貧乏でしたからね。女を養うためもあって、大学の時から僕は自活していました。原稿を書いては、金にかえていた。もちろん僕の名前を出しての原稿なんか買ってくれるところはないから、匿名の埋め草原稿ばかりでした。……僕には理想などなかった。僕が原稿を売らなきや、2人は暮らしていけなかった。その頃の時代は、左翼が盛んなときでした。いっぱい左翼がいました。……そして、左翼は空想していたな。日本を共産主義にしようという空想に燃えていた。だけど、彼らは生活に困らなかった。……僕には理想がなかった、それが君への答えだ。そんな生活をしているうちに、だんだんと僕の中から理想が育ってきたんだ。埋め草原稿を書いているうちに、もう少しうまく書こうと思うようになったんだ。そんなふうに僕はやってきた」(『学生との対話』)

 松下幸之助の言葉は常に理想を語る。表面的な言葉だけを追えば、「きれいごと」に聞こえる面もある。しかし、そうした「言われてみれば当たり前」の言葉に尋常ならざる迫力があるのは、経営という日々のリアルな仕事と生活の中で、繰り返し困難に直面し、どうしようかと考え、考え抜いた先に立ち現れた人間と仕事の本当を凝縮しているからである。彼が長年にわたる経営者としての経験の中で掴み取った、ありとあらゆる滋養にあふれた素材をすべてぶち込んで煮詰め、すべてを濾過した果てに残った無色透明の出汁のようなものだ。

 小林秀雄は空想をしなかった。現実の世の中での生活者としての経験を積み重ねる中で理想を創った。しかし、松下幸之助は評論家や思想家ではない。企業経営者であり、実務家である。彼は自らが掴み取った言葉で人を動かし、組織を動かし、事業を動かし、企業を動かした。言葉にそれだけの力がなくては、経営者である彼にとっては意味がなかった。

 松下幸之助は経営者として、念じるような気合を入れて自分の言葉を文章にしたのだと思う。彼の言葉は絵空事の「空想」でないのはもちろん、「理想」にとどまるものでもなかった。それは文字通りの「理念」だった。

 『道をひらく』に代表される松下幸之助の言葉は、それが言葉の正確な意味での理念であったからこそ、時代を超越して世界中の人々の道標になり得たのである。

 

楠木 建(くすのき・けん)一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授

1964年、東京都生まれ、南アフリカで子ども時代を過ごす。一橋大学商学部卒業、同大学助教授などを経て、2000年に一橋大学大学院国際企業戦略科へ移り、2010年より現職。著書に、『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)などがある。

 


《掲載誌紹介》

PHPスペシャル増刊号
人間・松下幸之助~明日への道をひらくヒント

松下幸之助著『道をひらく』は500万部を超えるベストセラーとなり、若い女性を集めた女子会が開催されるなど、没後25年(生誕120年)が過ぎるにもかかわらず、経営者やビジネスリーダーだけでなく幅広い世代に支持され、その言葉は読み手の人生に大きな影響をもたらしています。
ただ、向上心あふれる勉強熱心な若い方々も、幸之助がパナソニックの創業者であることを知っているくらいで、その生い立ちや人生観・哲学などは知らない、という方が多いのが実情です。
そこで、大きな困難を抱えながらも、それを乗り越えて偉業を成し遂げた松下幸之助の生き様や言葉を、縁の地を訪れたり、よく知る人に話を聞いたり、思うところをエッセイでつづっていただいたり、心にしみるエピソードやキーワードなどを用いてわかりやすくご紹介します。
苦難もまたよし、悩んでも悩まない……、どんな困難も乗り越え、自分らしく生きる知恵を、この一冊に込めました。

<書籍紹介>

道をひらく

松下幸之助著

運命を切りひらくために。日々を新鮮な心で迎えるために――。人生への深い洞察をもとに綴った短編随筆集。40年以上にわたって読み継がれる、発行500万部超のロングセラー。

 

関連記事

アクセスランキングRanking