河合隼雄・満ち足りた人生とは
2014年10月15日 公開 2024年12月16日 更新
《『河合隼雄の幸福論』より》
モモの笑顔
モモというと、多くの人が児童文学のミヒャエル・エンデ作『モモ』(岩波書店)のことと思われるに相違ない。もうすでに100万部が売れたとのことだから、日本中にモモのファンがいると考えていいだろう。主人公の少女のモモが素晴らしくて、だれでもこんな少女に一度会ってみたいと思うだろう。映画化されたので映画を見たが、モモになった女優さんの目の美しさが、強く印象に残っている。
ところで、今回お話するのは『モモ』のことではなく、老人のモモのことである。と言っても不思議にエンデの『モモ』の主題と重なってくるが、これは後に述べる。
テレビを何となく見ていると、北アフリカ紀行というシリーズで、カスバを映している。われわれオールド・ファンはカスバというとすぐに映画の「望郷」、主演のジャン・ギャバンを連想するのだが、確かにあのときに映画に見たとおりの入り組んだ街が映され、なつかしい想いで見た。
カスバの人たちに、NHKの人がインタビューをすると、多くの人が「モモじいさんに会いにゆけ」と言っている。モモじいさんは昔からの尊敬を受け、何かにつけて相談に応じている人らしい。
カメラはまたもや錯綜した路地をあちこち移動し、「モモじいさん」の家にたどりつく。呼ばれて出てきた、モモじいさんの笑顔を見ると、こちらも釣りこまれてにっこりとしたくなってくる。会話の間も別に大したことを言っているわけでもないのだが、モモじいさんの笑顔を見ているだけで、気持ちがなごやかになるのを感じる。
おそらく、いろいろもめごとがあっても、このじいさんの笑顔を見ているだけで、だれもが争いは止めにしようと思うのではなかろうか。この番組は、モモじいさんの笑顔を映し出してくれただけで、十分に価値があると思った。
1920年ごろ、というといまだヨーロッパ中心の考えが強かったころ、スイスの分析学者のユングは、アメリカ・インディアンの人たちに会って、その老人たちの顔の素晴らしさに感心する。ヨーロッパにはこれほどの威厳と落ち着き、それに温かさをそなえた顔をしている老人は1人もいない。このことからだけでも、ヨーロッパ人は、自分の文化の欠点について反省すべきだ、と彼は考えたという。
ところで、モモじいさんは二コニコとNHKの人に応対していたが、最後になると急にいかめしい顔つきになってきて、日本人に対して苦言を呈したいと言う。日本人は欧米のまねに一生懸命になりすぎて、昔からもっていた東洋の知恵を忘れているのではないか、というのが彼の主張である。
日本人にも日本古来のよさを忘れてはならない、という人はたくさんあって、時には食傷気味だが、こんな素晴らしい笑顔をするモモじいさんに言われると、こちらも考えこまざるを得ない。
そう言えば、海外で出会う日本人は――私自身も含めてのことだが――セカセカ、イライラしていて、モモじいさんの落ち着きとは、ほど遠いものがある。私もそろそろ老人の域に達してきたので、できることならモモじいさんのような、笑顔をもった老人になりたいものだが、これはどうすればいいだろう。
考えてみると『モモ』の主人公の少女モモも、たくさんの人の相談を受けて、彼女に話を聞いてもらうだけで、人々は心のなごんでゆくのを感じるのだった。少女のモモと老人のモモ、どちらも素晴らしいが、その共通点は「時間」というものに縛られていないことらしい。あるいは、自然の時間に生きている、と言っていいだろう。
と言っても、現代人のわれわれは「時間」と無関係になど生きられない。他人と約束した時間を守らなかったら、一人前の人間として扱ってもらえないであろう。結局は「時間」に追いまくられ、その分だけシカメツラになり、笑顔は消えてゆく。
現代人の生き方の難しいところは、時間に従って生きながら、それに縛られたり、追いかけられたりしない、ということであろう。その対策のひとつとして、時には「時間を忘れ」たり「時間にこだわらない」生き方をする「時」をうまく確保することであろう。
そのような心の余裕をもつことによってこそ、モモじいさんのような笑顔が生まれてくることと思われる。2種類の時間をうまく使って生きる道を見いだしてこそ、現代人も少しいい笑顔を取り戻せるのではなかろうか。
満ち足りた人生
「満ち足りた人生」というのは、人間にとっての1つの理想像であろう。何も不足はない、いつも満ち足りた気持ちで一生を過ごせたら、それは幸福そのものなのではなかろうか。といっても、実際にはそんな生活はあるのだろうか。あるいは、どうすればそれを手に入れられるだろう。
このようなことを考えるとき、私は昔話のなかに適当なものがないか、と探してみる。昔話は長い間にわたって人々が口伝えにして保持してきたものだけあって、一見荒唐無稽に見えても、なかなかの「民衆の知恵」のようなものを内包していることが多い。そんなわけで、いろいろと昔話を読んでいると、いいのが見つかった。イタロ・カルビーノ『イタリア民話集』(岩波文庫)のなかに「満ち足りた男のシャツ」というのがあった。その話をまず紹介しよう。
ある王様の一粒種の王子は、いつも満たされぬ心をかかえて、一日中ぼんやりと遠くを見つめていた。王様は息子のためにいろんなことをしてみたが駄目だった。王様は学者たちに相談した。学者たちは「完全に満ち足りた心の男を探し出して、その男のシャツと王子様のシャツを取りかえるとよろしい」と忠告してくれた。
王様はお触れを出して、「心の満ち足りた男」を探させた。そこヘ1人の神父が連れて来られ、「心が満ち足りている」と言った。王様は「そういうことなら大司教にしてやろう」と言うと、神父は「ああ、願ってもないことです」と喜んだので、王様は「今よりもよくなりたがるような人間は満ち足りていない」と、追い払ってしまった。王様もなかなかの知恵ものである。
つぎに近くの国の王様が「まったく満ち足りた」生活をしている、というので、使節を送った。ところがその王様は「わたしの身に欠けるものは何一つない。それなのにすべてのものを残して死なねばならぬとは残念で夜も眠れない」と言うので、これも駄目ということになる。
王様はある日、狩りに出かけ、野原で歌を歌っている男の声があまりに満ち足りていたので話しかけてみる。王様が都会へ来ると厚くもてなすぞ、などと言うが、若者は「今のままで結構です。今のままで満足です」と言う。王様は大喜びだ。ついに目指す男を見つけたので、これで王子も助かると思い、若者のシャツを脱がせようとしたが、「王様の手が止まって、力なく両腕を垂れた。男はシャツを着ていなかった」。
これでお話は終わりである。皆さんはこの話をどう思われますか。昔話は読んだ人がそれぞれ好きなことを考えればいいので、別にそこに「正しい答え」があったりするわけではない。つまらないと思う人は、ほうっておけばいい。
この話は、私には結構面白かった。満ち足りた男というので、まず聖職者が現われ。それも結構世俗的な出世欲をもっていることがばれてしまう。つぎに、何でもかでも持っている王様が候補者になるが、「死」を恐れているために「満ち足りた」気持ちになれない。最後のところで、何も持たない、シャツさえ着ていない男が「満ち足りた男」として登場する。「満ち足りる」というときに、すぐわれわれが考えるのは、何か手に入れることの方だが、むしろ、何も持たない者こそ満ち足りていることを示す点が心憎い。人生には面白いパラドックスがあって、昔話はそのようなことを語るのに向いているようだ。
男のシャツを譲り受けようとしても駄目だったことは、ほんとうに「満ち足りた生き方」などというのは他人からの借りもので、できるはずがないことを示していると思われる。これさえあれば、息子は幸福になると喜んだ王様が、相手が裸と知って落胆するところが印象的である。考えてみると、息子に満ち足りた生活をさせようと父親がやたらに熱心になる、という出発点から違っていたのかもしれない。
<書籍紹介>
ちょっと見方を変えることによって、幸福が身近になる――。臨床心理の第一人者が綴る「幸福」に生きるための59のヒント。
<著者紹介>
河合隼雄(かわい・はやお)
1928年-2007年。臨床心理学者。京都大学名誉教授。京都大学教育学博士。2002年2月から2007年1月まで文化庁長官。国際箱庭学会や日本臨床心理士会の設立等、国内外におけるユング分析心理学の理解と実践に貢献。
『昔話と日本人の心』で大佛次郎賞、『明恵 夢を生きる』で新潮学芸賞受賞。その他『こころの処方箋』、『中空搆造日本の潔層』、『とりかへばや、男と女』、『ナバホヘの旅 たましいの風景』、『神話と日本人の心』、『ケルト巡り』、『大人の友情』、遺作『泣き虫ハァちゃん』など著作や論文は多数ある。1995年紫綬褒章受章、1996年日本放送協会放送文化賞、1998年朝日賞を受賞。2000年文化功労者顕彰。