なぜ日光東照宮は幕末の戦禍を免れ、世界遺産となったのか?
2017年03月14日 公開 2023年01月05日 更新
東照宮を守る千人同心、迫りくる新政府軍
だが、そんな東照宮がにわかに存亡の危機に見舞われる。
慶応4年(1868)正月、旧幕府軍は薩長両藩を主力とする新政府軍に鳥羽・伏見で完敗した。このおり大坂城にいた将軍慶喜は家臣たちを見捨てて江戸へ逃亡する。
当初慶喜は、江戸で新政府軍を迎え撃つと豪語していたが、それからまもなく豹変し、上野寛永寺に籠もって新政府に恭順の意をあらわした。
慶喜から新政府との和平交渉を一任された勝海舟は、主戦派の新選組を江戸から遠ざけるため甲府城の確保を命じた。
そこで局長の近藤勇は、新選組の名称を甲陽鎮撫隊と改め、同年3月1日、甲府へと向かった。このおり、新選組と縁の深い八王子千人同心たちはこれに加担しなかった。いや、できなかったのだ。というのは、3月4日に八王子を通過したばかりの甲陽鎮撫隊は、わずか2日後、甲州勝沼で板垣退助率いる新政府軍にあっけなく敗れ、ちりぢりになって逃げ戻ってきたからだ。
甲陽鎮撫隊の残党を捕まえるということで、早くも3月9日、新政府軍の一部が八王子に姿を見せはじめ、11日には甲州方面の新政府軍本隊も進駐してきた。その数は2000を超えており、いくら千人同心が大人数だといっても、抵抗するのは不可能であった。
そこで千人頭は、新政府軍を甲州街道沿いで丁重に出迎え、反抗する意志のないことを誓い、同時に主家・徳川に対する寛大な措置を嘆願したのだった。
このとき新政府軍の参謀である板垣退助は「お前たちは武田の旧臣だろう。徳川家には怨みはあっても恩などないはず。これからは朝廷のために励むように」と諭し、江戸を目指して進んでいった。
この2日後、勝海舟と新政府側の西郷隆盛との会談がおこなわれ、江戸城を無抵抗で開城することで、新政府による江戸総攻撃を中止することが決定され、翌4月11日、江戸城は無血で新政府軍に引き渡された。
しかしこの措置に不満を持つ大鳥圭介や土方歳三など旧幕臣の一部が、江戸から脱走して下総国市川に集結、2000の大部隊を結成して北関東を転戦しながら北走し、やがて日光へ入り込んだのである。
東照宮に参詣し、東照大権現(徳川家の始祖家康)に加護を祈ろうとしたのだといわれる。
脱走軍を追撃してきた新政府軍は、日光東照宮の宮司らに対し「脱走軍を日光から撤退させなければ総攻撃を仕掛ける」と恐喝したのである。
このおり東照宮側が必死の説得にあたり、ついに旧幕府脱走軍もこれに同意して日光から立ち退き、かわって新政府軍が進駐してきたのである。
ちなみにこのとき、日光に隣接する今市宿に滞在していた土方歳三は、千人同心で幼なじみの土方勇太郎を日光から呼び寄せて対面を果たしている。
勇太郎はちょうど火の番を果たしていたのである。ただ、勇太郎らが最後の火の番となった。このときの千人頭は石坂弥次右衛門であったが、八王子に帰着した翌日の閏4月11日、切腹して果てた。東照宮にやってきた旧幕府軍に味方せず、新政府軍を迎え入れたことを仲間に詰問されたからだといわれる。
先述のように、これより1月前、八王子千人同心は板垣退助の説得を入れて、誓紙を差し出し新政府に恭順していた。ところがその後、上野を拠点とした彰義隊(反新政府勢力)が3000を超える勢力に膨張し、さらに関東周辺の諸藩からも新政府に抵抗する姿勢を見せるところが現われ始めると、「彰義隊に合流すべきだ」と主張する千人同心たちが急増していった。そうしたなか、新政府に恭順した石坂弥次右衛門が帰郷したものだから、今述べたような状況が起こったのである。
弥次右衛門の死後すぐに千人同心たちの中に、八王子を脱して彰義隊に合流する者たちが現われはじめ、最終的にその数は200名におよんだ。上野に着陣した彼らは彰義隊内では八王子方と呼ばれ、歩兵奉行格の多賀上総介の配下に入り、千人頭の河野仲次郎、石坂鈴之助、山本錦太郎が統率して寛永寺や芝の増上寺の警護にあたった。
だが、新政府軍の大村益次郎は、5月15日、突如彰義隊の陣取る上野山へ総攻撃を仕掛ける。不意を突かれた彰義隊はわずか1日で壊滅、千人同心たちは八王子へ逃げ帰った。
この上野戦争の責任は、千人頭の河野仲次郎と河野組に所属する組頭日野信蔵が負った。両名は財産を没収され、ほかの者たちは免罪となった。
同年6月、八王子千人同心は武装解除され、正式に解体することになった。大半の者は、静岡に移った徳川家のもとへ向わず、農民として多摩地域で生きる道を選んだのだった。