石原慎太郎・戦後70年の回顧―歴史の十字路に立って
2015年06月19日 公開 2023年02月02日 更新
《『歴史の十字路に立って~戦後70年の回顧』より》
慙愧の念に堪えず
あの戦争から早くももう70年が経とうとしている。私は戦争にはわずかに遅れてきた少年だったせいで、終戦近く、米軍機による爆撃や機銃掃射に遭いはしたものの死なずに済んだ。それでも戦争に関する記憶はいろいろある。敗戦間際に紺碧の空に仰いだ敵機B-29が追撃の日本の戦闘機や高射砲の届かぬ高空を初めて目にする鮮やかな飛行機雲を引きながら去っていく姿。そして海鳴りに似た遠い九十九里浜への敵艦の艦砲射撃の音。空襲で燃え上がる横浜や東京の夜空を染める炎の色。
爾来、日本人として敗戦の屈辱を噛み締めながら、日本が自らの運命は自ら決せられる国として再起する日を信じて今日まで歩んできた。時には自らの人生そのものを懸けて国の舵取りに挑み、歴史の交差点に立ち会ってもきた。今齢八十を超え、私の人生という航海も終わりに近づきつつある。
私の青春は、あの亡き高見順がとくに作家とその時代の幸せな関わりについて「時代といっしょに寝る」と語ったように、何の恩寵によってか私自身の戦後の人生は戦後の日本の新しい歴史と重なっていた。その時代は、戦に敗れた後から今日にいたる戦後の日本社会の、いわば青春とも呼ばれるべき時代に他ならなかった。消費文明の到来とその後の高度成長に重なり、個人と社会の青春が重なり合うことの幸せに関して、私が味わったものに過ぎたるものはなかったとも言える。
人間の、人間としての興味や可能性はその多様性にあるものだと私は思う。『太陽の季節』という作品をもって世の中に出た私は、その後文学と政治という対極的な方法を併せて自らの人生とし、それら二つの方法における思考と実践を私なりの努力で行ってきたつもりだ。この二つは私の内部においてある時は反撥し合い、またある時は対極的であるが故にかえって背中合わせに近い密着でそれぞれの思考と実践を規制し合い、その相互作用による多様性によって私はさまざま人生の瞬間を味わい、この国の幾つかの岐路、歴史の十字路に立ち会うことが出来た。
政治との関わりについて言えば、昭和43年に参議院議員に当選して国政に参画し、その後衆議院に移って閣僚も経験し、代議士として25年の永年勤続の表彰を受けてある決心を踏まえて国政を去り、4年の空白をおいて東京都知事に当選し、13年半その職をつとめたが、今、「戦後70年」という時間に自らの人生を重ねてみると、私なりに懸命にこの日本について考え、真の独立国家としての再起を訴えてきたつもりだが結果として日本をどう支えも出来ず、どう救いも出来ずに立ち至ってしまったと慙愧の念に堪えない。
過剰な個人主義、水平的な価値観
司馬遼太郎は、死の直前の頃、「日本は国としての峠を過ぎて、これからあるのは静かな停滞だけだ」などと言っていた。そして、「衰退期に向かっているという証拠に、日本文明の構成者が少しものを考えなさすぎるように思う」とも。
私は、「ものを考えなさすぎる」というよりも、我々の精神や意識、あるいは情操の中から、何かとても大切なものがぼろぼろ欠け落ちて消えていくような気がしてならない。
数年前、たまたまナショナル・ジオグラフィックチャンネルで、年老いて死んだ象に仲間の象たちがそれぞれ別れを告げる映像を目にしたものだが、象には確かな死の意識があるようで、それぞれが倒れている象の周囲を巡り、仔象までが物言いたげに鼻で死骸を触っていた。近くの茂みから枝や草の塊を引き抜いてきて死骸にかぶせたり、周囲に置いたりすることもあるという。たとえ朽ちて地に還るとしても、彼らはきちんと死んだ仲間の弔いをするのだ。
今の日本を思う時、私は全国で相次いで発覚し、なお続いている高齢者の失踪やその所在や生死が確認出来ないという実態を想起しないわけにいかない。私の都知事時代、足立区の民家で戸籍上111歳だった老人がミイラ化した遺体で見つかった事件が発端だったが、これは老人の孫が、受給資格がないのを知りながら老人の妻の遺族年金を不正受給し続けるために生存を偽装したというのが事の真相だった。親の弔いもせず、遺体を放置したまま年金だけを受け取り続けたという事実は、人間にとって決定的に大切な何かが取り返しのつかないところまで壊れ、喪われてしまったということの証しに他ならない気がする。人間としての垂直な情念、倫理観や価値の基軸が損なわれ継承されずに消滅しつつあるのではなかろうか。
昭和62年に亡くした弟について書いた本がミリオンセラーになった時、大層な反響に面映ゆい思いをしたが、なぜそれほどまでに読まれたのかを考えてみると、その大きな理由の一つは、私たち兄弟の人生の中に、昔の日本ならば当たり前だったことが、当節ではいかにも強い印象で映る、血の繋がった兄弟という関わりの意味や価値が改めて感じられたせいではなかったろうか。つまり今日の日本社会での親子兄弟といった「家族」というものの変質に、多くの人々が強い不安と不満を持っているせいではなかったろうかと思う。
象ですら親しい仲間の死を弔うのに、今の日本人には親の死すらも他人事に過ぎないのだろうか。親の死を利用して不正に金を得ても心が痛まない。自分は肉親先祖と繋がってここに在るという感覚が希薄となり、その繋がりの中で自分は生かされているという実感が戦後の多くの日本人から失われてしまった。死者に居場所を与えず、今生きている者だけの権利が無条件に尊ばれるという過剰な個人主義、水平的な価値観に覆われた社会となりはてたのではなかろうか。
垂直の情念や倫理観への慮り、畏れの念を失うことが人間にとっていかに致命的なことか。それをなくしてしまえば、残るものは際限のないエゴイズムと物欲だけでしかあるまいに。
こんな日本のために父祖は命を捧げたのか
戦後70年を経た日本は、物欲第一の時代を迎えてしまったようだ。振り返ってみると、戦後この方日本が享受してきた平和は世界の中で未曾有のものだったとも言える。国家を只ならぬ緊張に哂す事態に遭遇することなく、アメリカに隷属することでの「平和の代償」を意識することもなく半世紀あまりを過ごせたのは人間の歴史の中でも稀有なことではあるまいか。
しかし、「平和の毒」というものは明らかにある。私は最近の日本の様相を眺めると、この言葉を是とせざるを得ない。政治が何を行うかは所詮、国民が何を望み欲しているかによって決まってくる。ならば今、大方の日本人が何を最も求め欲しているかといえば、端的にいって物欲を満たすこと、煎じつめれば、「金」でしかあるまいに。それも当面の生活を満たすための小金でしかない。
「大欲は無欲に似たり」というが、国民が抱いているものは日本という祖国の再起のための大欲には程遠く、政治は「国家」不在で小金に迎合する低俗な資質しか持ち合わせていない。逆立ちしてもあり得ないような高福祉低負担の虚構の存続を国民は望み、それを補填するためのいかなる増税にも反対を唱える。いかなる政党も選挙の度にそれに媚びへつらって従うしかない。「民意」なるものが物欲第一に向かうならば、それでは国家がもたないと説き伏せる指導者がいて然るべきだろうが、そもそも今の日本人にそうした指導者を望む意志があるのかも疑わしい。
こんな日本をもたらすために、私たちの父祖はたった一つしかない命をあの戦争に数多く捧げたものだったのではあるまいに。
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