小松殿、舅昌幸の沼田入城を拒否す
真田昌幸・信繁父子は、難所碓氷峠が控える中山道ではなく、間道の吾妻街道を通って上田を目指した。途中、徳川方の大名と遭遇することを恐れてのことだったといわれる。そして昌幸父子は、上野国沼田に到着し、城に入ろうとした。これは秘かに沼田城を乗っ取り、徳川方や信之を動揺させる目論見だったという。ところが留守を守っていた信之正室小松殿は、夫信之が同道していないことや、夫から何の連絡もないことなどから、舅昌幸の行動を怪しみ、入城を拒否した。そして、もし無理に城に入ろうとするなら舅といえど一戦も辞さぬと、城内の女性に至るまで武装させ、戦闘準備を整えさせた。さすがの昌幸もこれには閉口し、何らの意趣なくただ孫の顔を見たいのみだと伝えると、信之夫人は子供らを連れて城外に出て昌幸に孫の顔を見せ、沼田を去らせたという(『長国寺殿御事蹟稿』『大蓮院殿御事蹟稿』など)。
その後昌幸は、沼田領の村々に放火し、上田に帰還したという。これは、息子信之が、東軍に残留したことを、父と内通した上でのことと疑われるのを避ける意味があったのではなかろうか。
昌幸は、沼田から吾妻街道を経由し、岩櫃を経て上田へ急いだ。一説に、沼田から大笹(群馬県吾妻郡嬬恋村)にさしかかったところ、行く手を徳川方の一軍に遮られたが、ここは信繁が撃破し、押し通ったとも伝えられる。昌幸・信繁父子は、下野から上田への帰還を果たした。その日程は、定かでない。
いっぽうの信之は、徳川氏へ忠節の証として、当時わずか四歳であった次男信政(生母は小松殿)を江戸に人質として出したという。幼い信政に、重臣矢沢但馬守頼幸が随行した。
江戸に到着した信政は、矢沢頼幸に抱かれて家康の御前に参じた。信之の忠節に感動した家康は、信政を側近くまで招き寄せ、吉光の脇差を与えたという(『松城通記』『真武内附録』)。
ところで、沼田城に在城していた小松殿が、舅昌幸と義弟信繁の入城を武力で拒んだ逸話はつとに有名である。しかし、これが事実かどうかは検討の余地がある。私は、前著『真田信繁』で、信之が早くから家康とともに動いていた形跡があり、大坂にあった人質を沼田に取り戻していたのではないかと推定した。その根拠とした史料は、大谷吉継から真田昌幸・信繁父子に送られた、7月30日付書状の一節である。そこには、在坂の真田昌幸の正室山之手殿(寒松院殿)と、信繁正室竹林院(大谷吉継息女)は、大谷に無事に保護されていることが明記されている。いっぽうで、信之の人質については次のように記されている。
此已後ハ留主御気遣有間敷候、伊豆殿女中改候間、去年くたり候時、左衛門佐方くやミ候様子までを証跡ニ申無別儀候
大谷吉継は、大坂の人質は無事なので安心してほしいと記した後に、真田信之の人質について、信之は去年(慶長4年[1599])女中改めを口実にして彼女たちを引き揚げてしまっていたと述べている。こうしたことが、可能であったかどうかについては、石田三成らが家康を弾劾した「内府ちかひの条々」の一節に次のような記述がある。
一諸侍之妻子、ひいきひいきニ国元へ返候事
石田三成らは、大坂屋敷に提出させておいた大名・小名の人質について、家康が依怙贔屓に国元に返してしまっていることを、太閤の遺命に背く重大な罪状として取り上げているのである。信之の人質である小松殿や息子たちは沼田にいたというのは、家康の計らいによるものと推定される。小松殿や信政が沼田に在城しており、関ヶ原合戦の直前に、信政が人質として、江戸に提出できた理由も、これで説明できるのではなかろうか。記して後考をまちたいと思う。
※本記事では「信之」の表記を使っております。
平山優[ひらやま・ゆう]
1964年東京都生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編さん室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹を経て、山梨県立中央高等学校教諭。2016年放送の大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当。著書に、『武田信玄』『長篠合戦と武田勝頼』(ともに吉川弘文館)、『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』『天正壬午の乱 増補改訂版』(以上、戎光祥出版)、『山本勘助』(講談社現代新書)、『真田三代』(PHP新書)、『大いなる謎 真田一族』(PHP文庫)、『真田信繁』(角川選書)などがある。また『マンガで読む真田三代』(すずき孔、戎光祥出版)の監修を務める。