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1992年コズイレフ秘密提案 北方領土返還交渉でかつてない譲歩を拒んだ日本

東郷和彦(京都産業大学 教授・世界問題研究所所長)

2017年03月31日 公開 2024年12月16日 更新

※本稿は東郷和彦著『返還交渉 沖縄・北方領土の「光と影」』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。

 

日ソの領土交渉を沖縄返還交渉と比べて回想してみると、いくつかの看過しがたい過ちがあったとはいえ、その大筋において、政府の政策は一貫性を保ち、国民意識との距離もないままに進んできたと思われる。「北方領土愛国心」及び「醒めた現実主義」の均衡の下で、日ソ平和条約交渉はそれなりに進捗していたのではないかと思う。

異変が起きたのは、1992年、いよいよ相手が動き出した時からである。戦争の結果失った領土を交渉によって取り返すという課題の重みに、日本政府とそれを支える世論が押しつぶされてしまったように見える。その敗北の歴史を、北方領土交渉はこれまで引きずることになったと思う。

1992年3月19日から22日まで、コズイレフ外務大臣が訪日。渡辺美智雄外務大臣との会談は20日と21日。21日の公式会談が終わったあと、大臣、通訳、ノートテーカー(筆記者)による少人数非公式会談が開催された。そこで、コズイレフから非公式の秘密提案であるとして、以下のラインの提案がなされた。

1)56年宣言で引き渡しが決まっている歯舞・色丹二島についての引き渡し交渉をまず始める。
2)合意を得たら、法的に二島が日本に引き渡される協定を締結する。
3)これにならった形で、国後・択捉についての交渉を行う。
4)合意したら、四島の問題を解決する平和条約を結ぶ。

提案の内容は、ロシアからのかつてない譲歩を含んでいた。

ロシアの考え方を推察すれば、「まず、議論せざるを得ない『歯舞・色丹』の引き渡しについての合意をしよう。歯舞・色丹における日露両国人の共存が島を豊かにし、ロシア人にとっても悪い話ではないことをまず実証しよう」、そうすれば、「国後・択捉についても、引き渡しはそれほど悪くはないと理解を得られる可能性がある」、そこで「歯舞・色丹引き渡し協定にならった形で、四島についての平和条約ができる」という提案だったと思う。

これに対して日本側の基本的主張は、「四島の引き渡しは正義であり、国後・択捉に対する日本の主権を認めることが先決」「主権さえ認めれば、その他の引き渡しの時期などは柔軟に対応する」というものであり、コズイレフ提案を交渉の基礎とすることに同意しなかった。

クナッゼはその後、何回か日本側に対し、日本の提案を呑むことは無理である、ロシア国内には二島にも反対する勢力がいる、まず二島引き渡しによって彼らを安心させ、ロシア国論を領土交渉に引き込むことが必要だという主張をしたようである。

日本側はこれに同意せず、「国後・択捉の影」というような柔らかい表現も使ったようであるが、結局双方の立場は乖離したままに残り、9月13日に予定されていた大統領の訪日は、その4日前に突然キャンセルされた。

私にとってもこの訪日直前キャンセルの知らせは、衝撃的だった。当時、私は1991年の末から在ワシントンの総括公使の仕事を始め、目前の課題として、西独大使に転任される村田良平大使をお送りし、その後任として着任された栗山尚一大使の活動開始を補佐する仕事に専念していた。

当時、様々な情報が入り乱れる中からやがて、コズイレフ訪日の際にロシア側から「極秘非公式提案が行われたが不首尾に終わった」という話が聞こえてきた。

そうした何らかのボタンのかけ違いでも想定しないと理解できない事態だったので、私はその「極秘提案」なるものを入手し読んでみたいと思った。

その後私は94年2月モスクワ大使館の次席公使として赴任、大使館に残っている文書と本省に残っている文書を関係者の協力を得て精査し、しばらく経ってから、会談記録の紙を入手した。一読して、私は驚愕した。なぜこの提案を基礎に交渉開始をしなかったのだろう。

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