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「ありがとう」は相手への感謝の言葉ではない―失われる古来日本人の言葉と信仰

金山秋男(明治大学法学部教授)

2018年05月01日 公開

明治時代に復活した「ありがとう」は真の意味を忘れてしまった

何よりも日本人が大好きな言葉が「ありがとう」です。これは代表的なやまと言葉の一つです。

みなさんはどんな時に「ありがとう」と言いますか?

この「ありがとう」という言葉は現在では平板な使われ方がされ、何か他人から与えられた時、何かをしてもらった時に「ありがとう」と使います。

つまり、他者と自分との関係性のなかだけで使用されています。

ところが、「ありがとう」にはこんな場面もあります。

初日の出を見ます。その時に、なぜか日本人の心に浮かんでくる言葉が「ありがとう」です。

あまりにも美しいもの、自分を遥かに超えたものに出会った時、その時の感激がそのまま「ありがとう」という言葉として出てくるのです。

もともとは「相手がありがたい」のではなく、そういう状況を与えてくれた第三者、つまり神仏や運命に対して「有り難し」の思いだったわけです。

有ることが難しいのに、なぜこんなことが起こったのだろうか? その状況に対する神仏を含む第三者への純粋な感謝なのです。

以前に私は四国のお遍路をやりましたが、最後の八十八箇所目、香川県の大窪寺では、歩ききった人たちが誰にともなく互いに心の底から「ありがとう」「ありがとう」と言い合う光景に出会いました。

これは、単に相手が何かをしてくれたことに対して感謝しているのではありません。

八十八箇所巡りは全長1,400kmほどありますが、一箇所ごとに必ず登るから大変なのです。また室戸岬から足摺岬までの区間は札所間が離れており特に苦しい。一つの岬を数時間かけて越すとまた岬が遥か遠くに見えるといった具合です。

この苦しいところをいくつもやりきったところに、この「ありがとう」が出るわけです。

巡礼に限ったことではなく、駅伝やバレーボールなどでもなんでもそうです。

一人の人間を超えてみんなが一体となって国難を乗り切った時に、「なぜこんなことがあるんだろう、有り難し」という世界のなかで、人はお互いに「ありがとう」い言い、涙を流すのです。

「有り難し」の世界には、災厄など限界状況から逃れた時、はるか古代からの神聖な存在に対する畏敬の念のようなものが現れています。

自分の自我という枠を完全に忘れ、自分の体と心と言葉が一体になっています。

古くから存在していた「ありがとう」に対して、江戸時代には感謝を表すために「かたじけない」が使われていました。これは身分の高いものに対する恐縮の意を表すもので、当時の身分制度の影響です。

身分制度が希薄となった明治以降に、「ありがとう」が復活するという現象が起こりました。

神仏に対して使われていた「ありがとう」が人と人の間で使われる一方で、神仏に対する信仰が薄れていくことで、この言葉が形式的なものとなり、さらに「ありがとう」すら省略され、「ども、ども」といったような平板化の経緯をたどることになったのだと思います。

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