「天の時、地の利、人の和」がみごとに揃った
コジモの平和行脚はなおも続き、時の教皇ニコラウス五世とも会いました。ボローニャで学び、フィレンツェで家庭教師の経験もあるニコラウス五世は、人文主義者との交友を深めた人物です。
ローマへの巡礼者が疫病などで倒れるのに心を痛めて、ローマの都市改革に着手した人物です。また芸術を愛し、ヴァチカン宮殿を装飾するため、フィレンツェからフラ・アンジェリコを招いています。
後世に「最初のルネサンス教皇」と呼ばれたニコラウス五世は、コジモの五大国の平和の大切さにについて、首肯したことでしょう。彼がローマ教会の立場をゴリ押ししない教皇であったことは、コジモにとって幸いでした。
ナポリ王アルフォンソ五世と会見したのが、コジモの平和行脚の最後でした。ナポリ王アルフォンソ五世は、スペインの王国アラゴン王でもあります。ピレネー山脈の東南部からバルセロナを含むカタルーニャ地方を支配していました。
スペインの王家がナポリ王となっている理由は、入り組んだイタリア半島の覇権争奪戦と深い関係がありますが、ここでは割愛しましょう。アルフォンソ五世はナポリが大好きで、相手がオスマン朝であろうがフランスであろうが、他国の侵略を許したくない人でした。彼もコジモに同意しました。
実は、コジモが四人の君主たちの宮廷を全て訪ねたか否か、それは定かではありません。しかし、大事な同盟を手紙や代理の使者によって進めたとも思えません。
ともかくコジモが各国の同意が得られることを確信して、1454年、ミラノに近いローディに四人を招聘し、結ばれた平和条約が「ローディの和」でした。
内輪もめをして争ってばかりいると、オスマン朝やフランスなどの大国の格好の餌食になる、いまは争いは止そう。そのような誓いでした。
これから1494年までの40年間、一時的に危機に瀕したこともありましたが、イタリア半島は奇跡的な平和の時代を迎えました。その平和の時代にイタリア・ルネサンスの大輪が花ひらいたのです。
五大国が平和条約を結んだということは、人々の往来が自由になったということでもあります。芸術家の交流も商品の流通も、頻繁になりました。
コジモの外交のセンスと政治力は見事でしたが、他の四ヵ国の君主や教皇にも、時代を見る大局観とイタリア人の心情を思いやる個性的な感情が備わっていたのです。
よく言われる「天の時、地の利、人の和」が、みごとに揃ったのだと思います。天の時とはオスマン朝の抬頭、地の利とは利害関係を同じくする五つの国、人の和とは傑出した五人のリーダーの存在。イタリア半島にとって誠に幸運な条件が重なったのだと思います。