当時、澶淵の盟は評価されなかった
ところで真宗に長江の南へ逃げましょうと進言した王欽若は、自分の意見をつぶした寇準に対して、赤っ恥をかかされたという恨みを持っていました。
また戦場まで駆り出された真宗は、皇帝として戦場に臨んだという誇りよりも、大軍が対峙した戦場の恐さだけが記憶にこびりついていました。救国の決断をした寇準の行為を、正しく理解する能力が無かったのです。王欽若は、寇準に不満を抱いている真宗に進言します。
「寇準のやったことは平和条約といっても、ただプレゼントをして妥協してもらっただけです。あなたは恥をかかされているのですよ」と。そしてついに寇準を解任させてしまいます。
真宗は自分が恥をかかされたと思うと、くやしくてなりません。恥をそそぐために、王欽若の進言を受け、皇帝の権威を知らしめるための古の行事である「封禅の儀」を復活させました。
こんな莫大な出費と時間のかかる前時代的な行事を復活させたことからも、真宗の愚かさがよくわかります。
このような失政もありましたが、澶淵の盟が構築した平和は崩れず、宋の繁栄は続きます。
このほかにも、宋が結んだ和約はいくつかありました。
1038年、チベット系の遊牧民の西夏がオルドス地方(現在の内モンゴル自治区)に、銀川を首都として王朝をひらくと、しきりに宋の国境を侵略しました。
国力も軍事力も、宋の方が圧倒的に優勢でしたが、ここでも宋は平和条約を結びます。両国は君臣となって臣の西夏に、毎年銀5万両と絹13万疋、茶2万斤を贈ることを定めました。
西夏はこの平和条約によって、経済と文化を発展させ、独自の文字、西夏文字を創りました。
1122年には、東北の地に興った金という国と組んで、キタイを挟み撃ちにしようともくろんだ、「海上の盟」を結びましたが、キタイが滅ぶと今度はキタイの残党と結んで金を牽制しようとします。
しかし、この浅はかな計略は失敗し、開封を都としていた宋は金によって滅ぼされてしまいました。このときの宋の皇帝欽宗(きんそう)の弟が長江の南へのがれ、南京を都として即位し、高宗と名乗りました。
開封を都としていた宋を北宋、それ以降の宋を南宋と呼んでいます。この一連の政変は、当時の年号にちなんで靖康の変と呼ばれています。