「"積極的な安楽死"を議論すべき」宗教学者が語る理想の最期
2019年01月21日 公開 2021年07月26日 更新
<<「認知症や重い病気にかかったとき、延命治療をしてまで他人に迷惑をかけたくない」「連れ合いに先立たれ、生きがい、生きる意味を感じられない」――人生100年時代という華々しい言葉の裏に、多くの不安を感じる人は少なくない。
仏教の無常観、共同体における死生観など、本来日本人がごく自然に身につけていた「いのちのけじめ」のつけ方について、齢87歳を迎えた宗教学者・山折氏が語る。>>
※本記事は、山折哲雄著『ひとりの覚悟』(ポプラ社新書)より、一部を抜粋編集したものです。
人生最晩年、思想の師・親鸞に学ぶ理想の逝き方
私は現在、満年齢で87歳になります。80歳で没した釈迦の年齢を楽々と超え、90歳(満年齢89歳)で没した親鸞とも肩を並べる年齢になりました。
もちろん、彼らの生きた時代の平均寿命はいまよりずっと短かったのですから、私とは比べるべくもありません。彼らは当時としては相当な長寿であり、私はいまの平均寿命を少し超えたばかりのところです。
私の寿命があとどれだけ残されているのかしれませんが、いま、私が人生の最晩年を迎えていることに変わりはありません。そう思うと、私の思想の師である釈迦や親鸞が少しだけ身近になったように感じられます。
2016年末、私は不整脈が悪化し血栓が脳に飛んだことにより、軽い脳梗塞を発症しました。そのため翌年、不整脈と脳梗塞を防ぐための手術を受けました。
80代半ばの体に全身麻酔を施すこと自体が危険なのですが、名医の判断とその手により難しい手術に無事成功し、その翌日には退院、数日後には講演の旅に出ることができたのです。
医学・医療の発展の目覚ましさを身をもって思い知らされました。おそらく10年ほど前であれば80代半ばの老体に難手術を施すことはなかったでしょう。そして私は、不整脈と脳梗塞という爆弾を抱えて、なんとも居心地の悪い最晩年を過ごすことになっていたに違いありません。