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静かなる天才、ティム・クック…「世界初の1兆ドル企業のCEO」の知られざる実力

リーアンダー・ケイニー(堤沙織 訳)

2019年09月13日 公開 2023年01月18日 更新

2011年、ティム・クックがアップル社のCEOに就任した。スティーブ・ジョブズという革新的でカリスマに溢れたリーダーの死は、計り知れない悪影響を及ぼすだろうと、誰もが予想していた。

競合相手のアンドロイドの凄まじい追い上げや、ジョブズを失った後の製品開発に対する不安から、クックはまるで沈むのが分かっている船の舵を任されたようだった。

しかし結果として、彼が主導権を握ってから8年余りで、アップルは世界初の1兆ドル企業までのし上がったのである。

クックがCEOとなってからのアップルは、多くの部門で競合相手を圧倒している。iPhoneは10年間で12億台以上を売り上げ、モバイル業界全体の80%もの利益を独占している。

またコンピューター部門でも成功をおさめており、他の企業がスマートフォンやタブレットに顧客を奪われて伸び悩む中で、アップルは着実にシェアを拡大している。

これほどの成功を収めたティム・クックとは、いかなる人物なのか? そして何をしてきたのか? ここではクックの半生を追跡した書籍『ティム・クック アップルをさらなる高みへと押し上げた天才』より、なぜジョブズがティムを後継者に指名したのかに触れた一節を紹介したい。

※本稿はリーアンダー・ケイニー著、堤沙織訳『ティム・クック』(SBクリエイティブ刊)より一部抜粋・編集したものです。
 

ジョブズの死後、コピーではないクックならではのスタイルを決意する

2011年8月11日、ティム・クックは自分の人生を変えることになる1本の電話を受ける。相手はスティーブ・ジョブズで、クックは彼の自宅へ向かった。到着すると、ジョブズは彼にアップルのCEOになってほしいと頼んだ。

この時のジョブズは、すい臓がんの治療から快方に向かっており、自分はCEOの座から退き、役員会の会長に就任するという計画だった。2人とも、この時はまだジョブズがどれだけ死に近づいているかを知らず、これからの展望について熱心に語り合った。

そのたった数か月後、ジョブズの死の知らせが世界中を震撼させた。クックがCEOに就任してから1カ月後のことだった。そしてジョブズの死に関する報道が一段落すると、世間の目は瞬く間にクックに向けられた。彼は公の場に姿を現したことがほとんどなかったため、CEOとしてどのように仕事をしていくのか誰にも分からず、ただ不信感だけが漂っていた。

ソニーやディズニーなどの多くの大企業が、優れたリーダーを失った後で壁にぶつかっていたため、アップルも同じ道をたどるだろうと批評家たちは予想していた。

しかしクック自身は、ジョブズの代わりになるのではなく、ただ自分にできることをやろうとしていた。

 

クックのベースは学生時代から着実に作られていった

クックは、1960年11月1日、アラバマ州モビールで生まれた。両親はアラバマで生まれ育った生粋の南部人だ。クックはロバーツデールという南部の町で育つ。

そこでは住民皆が顔見知りという小さな町だが、今日でも住民の85%が白人であり、クックが住んでいた時から現在にいたるまで、人種差別が根強く残っている。中学生だったクックはクー・クラックス・クラン(KKK)が集会を開いている現場に遭遇し、その1人が知り合いの神父だったことに大きなショックを受けた。

その時見た燃える十字架のイメージは、自分たちとは異なる人々に対する無知と憎悪、そして恐怖の象徴として、クックの心に深く刻まれ、その後の人生観に大きな影響を与えることとなった。

2013年のスピーチでは、「私はオフィスにキング牧師とロバート・ケネディ大統領の写真を飾っています。彼らは自らの命を危険にさらしながら差別と戦った、我々皆のロールモデルとなるべき人物なのです」と語っている。1978年に高校を卒業すると、ロバーツデールを出てオーバーン大学へ入学し、その後IBMへ入社する。

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IBM、コンパックで業界を学び、昇進も転職も、快進撃のように成功

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