徳川家に対抗するため? 伊達政宗の思惑とは?
戦国時代を生き抜いた伊達政宗は、実父を見殺しにし、実弟まで自害させている。梟雄(きゅうゆう)といわれるほど油断のならない武将だった。
当時、徳川家による天下統一がほぼ固まりつつあった時世においても、伊達家による天下制覇の野望を捨てきれなかった彼は、欧州諸国や、ニュースペインと呼ばれたメキシコとの交易を通じて仙台藩を富ませ、その富力を背景に徳川家に対抗することまで考えていたとされている。
こうした貿易を仙台藩が独占するためには、ローマ法王の権威づけがぜひとも必要だったので、嘘も方便、武士の嘘は武略とばかりに割り切り、このような書簡をローマ法王パウロ5世に宛てたものと推察できる。
この書簡を目の当たりにした私は、伊達政宗の狡猾な一面を垣間見ると同時に、その生臭い息を一瞬嗅いでしまったような、奇妙な感覚に襲われた。
しかし、歴史は伊達政宗の思ったようには微笑まなかった。支倉常長がローマでパウロ5世法王に謁見を許され、その書簡を手渡した同じ年、日本では大坂夏の陣が終わり、徳川家の天下統一が確定した。幕府によるキリスト教禁令の徹底化が始まったのはこのころだ。
政宗は支倉使節一行の帰国を待つことなく、手のひらを返したように仙台藩領でキリスト教徒の弾圧を始めている。
常長は1620年に帰国しているが、ローマでクリスチャンに改宗した彼を待ち受けていたのは栄光ではなく、過酷な運命だった。時代の波に翻弄された彼の生涯は、遠藤周作の小説『侍』に見事に描かれている。