36歳にして念願の大関昇進
天保8年10月、先代の小柳長吉が大関昇進に伴い手柄山と改めた際、「小柳」の名を継ぎ小柳常吉となった。そして天保11年(1840)2月、東六枚目の幕尻にようやく新入幕したものの、またまた4勝五敗と負け越し。
10月の番付は三枚上がった前頭三枚目で3勝4敗と負け越していながらまた一枚上がって前頭二枚目となる。そして、ついに天保12年1月場所になって2勝1敗5分とようやく勝ち越し、以降連続九場所前頭筆頭になるが、今度は皮肉にも番付の上昇が滞るという経過を辿る。
天保15年10月は阿波徳島藩の抱えとなる。しかし当時多くの幕内力士は大名のお抱えになるのが一般的であったにも拘わらず、小柳はこの一場所のみ番付に「阿波」と記されている。
翌弘化2年(1845)11月小結に昇進し、以後関脇、小結を連続14場所、6年在位するも番付の上に鏡岩、剣山がつかえていて大関に上がることが遅くなった。
待望の大関の座に上ったのは嘉永5年(1852)11月である。しかし、年齢はすでに数え36歳になっていた。
ペリー提督の前での相撲披露 黒船の船員を次から次へと
嘉永7年1月16日、アメリカのペリーが前年に続き再び来航、三浦半島の突端、浦賀 (神奈川県横須賀市)に停泊し、幕府との条約締結へ「待ったなし」の交渉に入った。もう逃げ場のない日本の事態に、江戸の町はてんやわんやの大騒ぎ、角界もまたその時流に飲み込まれてゆく。
相撲会所は、前年の黒船来航の際、幕府に対して、ことある時は協力する旨、既に申し出ており、この時いよいよ力士の出番となったのである。
日米間で和親条約の締結交渉中の2月26日、神奈川に設けられた接見所(=現在の横浜開港資料館付近)で、ペリー提督(=東インド艦隊司令長官)へ御進物運搬及び相撲を披露するため、会所は大関小柳、鏡岩を筆頭に力士を送り、幕府の要請に一役買って出たのである。
『武相叢書』(武相考古會・昭和4年)に収録されている『亜墨理駕船渡来日記』(=石川本)の記述を精査してみると、最初に幕府へ上申したリスト(幕内力士20名幕下以下名の合計84名)には大関小柳常吉、鏡岩濱之助、そして巨漢白真弓肥太(飛騨)右衛門は入っておらず、本番1週間前会所から、差替えを追加願い出て、参加したといういきさつである。
まさか温存しておくためではなかろうが、なぜか当初は候補から除外されていたのである。
力士によるデモンストレーションの様子を日本側が書き記した文書は2、3あるが、その中で『徳川實紀・巻三「温恭院殿御實紀」』(国立国会図書館蔵)、2月16日の項に簡単な記述があり、これが一級資料として諸書に流用されていったようである。
要約すると、「浅草御蔵前から廻船し、横浜に運んだ5斗入り米200俵、鶏300羽を力士50人が積み入れたが、その際小柳に注目が集まり、白真弓が米8俵を担ぎ、ある者は頭に乗せ、銜えたりして運んだ。
その後、船内にいる大力大兵の者が小柳に試しに相撲を取りたいと願い出て対戦。小柳は一人を脇へ掻き込み、一人を押し伏せ、一人差し上げた。艦隊員みな喝采を送った。
通詞(=通訳)の森山榮之助を通じて、『どうやってこんなに強くなったのか?』と質問あり、小柳は『日本のおいしいご飯(米)を食べ、うまい酒を飲んでいるからだよ』と答えたという」
『嘉永明治年間録』もほぼ同じ内容で、『日本相撲史 上巻』(酒井忠正著)は『龍神出場紀』からの出典だがこれも大差ない。