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日本酒のカリスマは、いかにしてニューヨーカーに「SAKE」を広めたのか

八木・ボン・秀峰(名誉利酒師、米国TICレストラングループ社長)

2020年04月18日 公開 2024年12月16日 更新

今日のニューヨークにおける「日本食ブーム」の仕掛け人で、「ボン」の愛称で親しまれている八木・ボン・秀峰さん。

19歳で単身フィラデルフィアに渡り、世界を放浪した後、八木さんは1台のトラックを買いこみ、イーストビレッジで青果店を起業。紆余曲折を経ながら、寿司や蕎麦、しゃぶしゃぶ、ラーメンなど、日本食レストランを次々に開業して成功をおさめます。1996年にオープンした日本酒レストランバー「酒蔵」は、日本各地の蔵元から200種類の銘柄を集め、ニューヨーカーから絶大な人気を得ました。

そうした活躍が認められ、NPO法人FBO(飲食専門家団体連合会) およびSSI(日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会) からは「名誉唎酒師」の称号を授与。令和元年には、日米の食文化交流への貢献が認められ、秋の叙勲(旭日双光章)を受けています。

八木氏はニューヨーカーに何を仕掛けたのか? 

初の著書『教養として日本酒』から、その一部をご紹介します。
 

日本酒の魅力を世界に伝える使命感

私はNYでずっと飲食業に携わってきましたが、最初は「24時間ダイナー」などのレストランをやっていました。アメリカンダイナーズレストラン「103」をオープンし、まだ無名だったマドンナ、アンディー・ウォーホル、キース・ヘリング、ジャン=ミシェル・バスキアなど、新進のアーティストたちも足を運ぶ店となりました。「郷に入っては郷に従え」との小さい頃からの母親の教えもあって、アメリカの市民権を取得したのは、この国で商売するからには出稼ぎではなく、アメリカ人として責任を取るべきだと考えたからでした。

しかし、本質は日本人です。日本人としてNYで何ができるかと考えたとき、飲食なら日本食だろうという結論に達したのです。

そこで1984年、江戸前鮨の専門店「波崎」を皮切りに、シャブシャブ専門店の「しゃぶ辰」や蕎麦屋など、日本食の各専門店を次々に展開してきました。「波崎」は私の生れた茨城県の港町の名前で、威勢のいい漁港のイメージは魚を扱う鮨屋にふさわしいし、ふる里をリスペクトする意味でこの名にしました。日本食第一号店への特別の思いもあったのです。

日本酒との出合いは、30数年前に日本で飲んだ「越乃寒梅」が初めてでした。このときの1杯は、一生忘れられない味になりました。当時アメリカには美味しい日本酒がなかったので、自分が感銘を受けた日本酒の味を世界に広めたいという気持ちから、日本酒を扱う飲食店を増やしてきました。

中でも日本料理のレストランバー「酒蔵」1号店と2号店、および日本酒の酒場「でしべる」は、NYでの飲酒シーンに少なからず影響を与えてきたと自負しています。

1996年にミッドタウンのグランドセントラル駅近くに開業した「酒蔵」1号店は、当地の新聞「NYタイムズ」に「隠れた宝石」と紹介されました。ビル街の地下にあって恵まれた立地ではないのに、昼も夜もニューヨーカーが喜々として集っているからです。

ランチタイムでも日本食とともに日本酒が楽しめ、そろっている銘柄は常時200種類以上。火入れした酒だけでなく、生酒、生酛、山廃、古酒、貴醸酒とあらゆるタイプをそろえ、食前、食中、デザートにと対応しています。酒リストには日本地図を加え、産地がどこか一目でわかるように工夫しました。

また銘柄は北海道から九州まで日本全国にわたるように配慮しています。NYに出張で滞在している日本からのビジネスマンは、自分のふる里の酒を懐かしんで、必ず探すからです。それで同行者と話が弾んで、新たな客層開拓に繋がる例も少なくありません。

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蔵元や杜氏の酒に込めた思いもそのままに

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