ゲームでは嫌われ者? 戦国公卿・山科言継と、珍味「鯨のアレ」との意外な関係
2020年04月21日 公開 2024年12月16日 更新
当時の貴族には「腕ききの町のお医者さん」の一面もあった!?
それにしても、淋病の娘を治療してくれたお礼に鯨の陰茎を出すという、宿の親父のセンスはちょっと常人では計り知れないところがある。上手に調理したら美味い食材だが、こういう珍味系を朝一発目に出されるのはキツイ。
しかし、言継は別に気にしなかったようである。鯨のたけりを出された後、日記にはこう記してある。
「又亭主の息女脈の事申候間取之」
また亭主の娘が脈を取って欲しいと言ってきたので診察してやったらしいのだ。
実は言継の日記には頻繁に様々な人々を診察し、施薬してやったという記述が頻出する。
今谷明氏の『戦国時代の貴族 『言継卿記』が描く京都』からの孫引きで恐縮だが、医学史研究家の服部敏良氏によると、日記には「家伝の秘薬」という記述もあり、山科家は代々、医を家業とする家だったようだ。言継自身、典薬頭丹波宗成など、当時の高名な医家と親しく交際し、嵯峨角倉の吉田宗桂らとともに「医方大成論」を購読研究している。
また、診脈なしでの投薬を忌み嫌い、時にははっきり拒絶することもあったという。
彼の医術は、決して貴族の余技でも気まぐれでもなく、専門的な訓練を受け、さらに職業的良心も身に着けた、高度なものだった。
言継の診察を受けた患者は、上は一条右大臣、勧修寺以下の大・中納言家などの貴顕から、下は地下庶民まで幅広い。
言継は京都の町衆とも文化・芸能の面で親密に交際しているが、その背景には宿の淋病の娘に見せたような、頼んだら気さくに脈を取ってくれる、腕利きの「町のお医者さん」としての顔もあったからだろう。
ちなみに言継は医術だけでなく、有職故実、笙、和歌、蹴鞠、双六などの技量も身に着けた、マルチな才能の持ち主だった。
地方に下向すると、地元の大名からとにかくちやほやされている記述があるが、それは戦争に明け暮れる武士たちの無聊を慰めることの出来る、しっかりした芸能の知識を言継が身に着けていたからだ。
駿府下向の前に、織田信長の父、信秀が頑張っていた尾張を訪ねたこともあるが、大規模な蹴鞠会に参加したり、信秀はじめとする織田家家臣団の人々と和歌・蹴鞠の門弟関係を結んだりと、文化人として大活躍。束脩(入会金・授業料)もしっかりせしめた上、この時、結んだコネクションがものを言い、後に信秀から朝廷に対する献金の引き出しに成功している。
また、鯨のたけりを食べた後、駿府を訪れた際にも、今川義元などと親しく交際を結んだ。ただ、滞在中に京都に残した二歳の愛娘が急逝したという知らせを受けたため、和歌や蹴鞠などの文化活動は控えめだった。それでも、求められた投薬だけは続けたというところに、言継の人柄がよく出ている。