童話「ヒナギク」の教え
野原に行ってお花を摘んで、それを自分のまわりに置いて、「キレイでしょう」と自慢する子がいる。お花を一人で全部摘んでしまう。
皆は不満になる。先生が、「一人で得意になっていて、皆のことが気にならない?」と聞くと、「ぜんぜん」と言う。
せっかくきれいな花を楽しみたいのに、その子が摘んでしまったから、皆は花を楽しめない。皆は不愉快である。
しかし、その子は一人でいい気になって、「キレイでしょう」と自慢する。この子のように、人に嫌われることをしながら、人から尊敬されようとしている人がいる。
先生に言われたときに気がつけばいいのに、突っ張って、「悔しかったら自分だってとればいいじゃない」と言う。そこでますます嫌われる。
お花を摘んでしまった子もこうした人々も、皆、満足していない。このように、自分が自分をうけいれていない人は、得意になっているが、嫌われる。
では、自分が自分をうけいれているとは、どういう状態をいうのであろうか。それを示すのにいい話が、アンデルセンの童話の中に出てくる。
それは、「ヒナギク」という話である。
田舎の道端に、一軒の別荘がある。庭の花壇には立派な花が植えられている。庭の隅にはヒナギクが咲いていた。
「ヒナギクは、だれも草のなかにうもれているじぶんに目をとめるものがないことや、じぶんがまずしいつまらない花だということは、少しも気にしませんでした。
それどころか、心からまんぞくして、まっすぐにお日さまのほうを見あげながら、空でさえずっているヒバリの歌に、うっとりとききほれていました」
自分に満足するということは、「自分が今ここにいること」に満足しているということである。今の自分のあり方を「これでいい」と思っている人である。
「今ここにいること」を楽しいと感じる。その体験を積み重ねていくことで、「実際の自分に満足する」ようになる。このヒナギクの心理状態が、自分が自分をうけいれている状態である。
このヒナギクは、ヒバリが歌えることを偉いと思っている。そして、自分が空を飛べないことや歌えないことを悲しいと思っていない。ヒナギクは、ヒバリが上手に歌えるのを感心している。
満足した人は、すべて良いことだと思っている。他の人を見て、「いいなー」と思える人は幸せな人である。そして、人生の苦しみを乗り越えている人である。
「いいなー、あの人は」という羨望は、悪口とは違う。「いいなー、あの人は」と素直に言える人は、人生が困難に満ちていても生き抜ける。
ヒナギクは、物事のうけとめ方が素直である。
しかし、不思議なことに、「愛されたい、好かれたい」と思う人ほど、実際の言動では嫌われることをする。それはすでに述べたように、「認められたいという願望」を動機とした行動と「好かれたいという願望」を動機とした行動とが、矛盾しているからである。
ヒナギクは、「これが自分に与えられたもの」と思っている。そして、与えられたものでいいと思っている。ヒナギクには「もっと、もっと」がない。ヒナギクは欲張りではない。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。