認めてもらいたいのに気持ちをハッキリと伝えられない。さみしいのに人と接すると居心地が悪い。気まずくなれば自分の殻に閉じこもり、非難されると不機嫌になる。だから摩擦を避ける。
「こんなこと言ったらバカにされる、嫌われる」と普段思っているのではないだろうか。悩み相談のスペシャリストである加藤諦三氏が、我慢しないでちょっとだけ自分を信じてみたら、人づきあいが楽になる方法を紹介する。
※本稿は、加藤諦三著『言いたいことが言えない人』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
「実際の自分」よりも高すぎる基準
なぜ低い自己評価になるのか。それは高すぎる基準を自分に課してしまうからである。では、なぜ高すぎる基準を自分に課すのか。
それは人を見下すため。だから、その高すぎる基準を下げられない。高すぎる基準を自分に課してしまうのには三つの理由がある。
まず小さいころ、重要な他者によって高すぎる基準を課せられた。そしてそれを内面化した。その人へまだ心理的に依存している。親から「実際の自分」を受け入れられた体験がない。その結果、「実際の自分」では周囲の人は自分を相手にしてくれないと感じてしまっている。
高すぎる基準を自分に課す結果、低い自己評価となる。そして低い自己評価によって失われた価値剥奪を取り戻そうと、高すぎる基準を自分に課してしまうという、悪循環に陥っている。
もうひとつ重要なのは、自己実現をして生きてこなかった結果である。自己実現していないから「実際の自分」というものを実感できない。自分が「実際の自分」をリアルに感じられない。そこで「実際の自分」とは関係なく高い基準を目標にしてしまうのである。
「実際の自分」よりも自分の心のなかにある願望を外化してしまう。そしてその願望を「実際の自分」と勘違いする。
「実際の自分」よりも自分の願望のほうが実感がある。自己実現していれば、ほんとうの満足を知っている。生きることに満足感がある。だから高すぎる基準を自分に課すことはない。
ずるい人に騙されやすい
恥ずかしがり屋の人は従順の裏に敵意がある。恥ずかしがり屋の人は心の葛藤に苦しんでいる。臆病と偽りの優越感。
他人より優れたい、しかし自分は他人より劣っていると感じている。それだけ優劣に敏感だということである。それだけ優劣で評価をされて生きてきたということである。
成長の過程で人柄とか、やさしさとか、思いやりとか、そういったものは何も評価の基準としてはあがってこなかった。そのうえで「おまえはいかに劣っているか」ということをたたき込まれたのである。
どんなに社会的に優れていても、ずるい人は評価されないという雰囲気のなかで育っていない。優れていてもずるい人に対して、「私はあの人嫌い」と言う人が彼の周りにはいない。優れているが冷たい人よりも、劣っていてもやさしい人に恋する人がその人の周りにはいなかった。
そうなると大人になって、ずるい人でも優れていると、その人のことを尊敬してしまう。その卑怯な人が立派な人に見えてしまう。そしてその人に劣等感を持つ。ずるくて優れている人に卑屈になる。
尊敬に値しない人を尊敬し、尊敬に値する人を尊敬しない。こうして人間関係を間違え、さらに人生を間違えて生きていく。恥ずかしがり屋の人ばかりではないが、人生が行きづまった人は、酷い人間関係のなかにいる。
恥ずかしがり屋の人は助けを求められないというが、そもそも彼らの人間関係は困ったときに助けあうような人間関係ではない。優秀かもしれないが、人を利用することがなんでもないような人たちばかりが周囲にいる。
そして恥ずかしがり屋の人は自己評価が低いから、その優秀でずるい人に利用されるだけ利用される。