なぜ全てがくだらなく見えるのか
ではなぜ、このようにすべてのものをくだらぬというのかといえば、それは心のおそれなのである。つまり何かに価値を認めてしまえば、自分は無価値となるか、努力するかのどちらかしかないからだ。
すべてをくだらぬといっていた人が、今かりにその批判した人物Aを価値あるとしてしまえば、その人物Aのようでない自分は価値がない。自分の存在は何の価値ともつらなっていないことになる。
なぜなら、あらゆることをくだらぬといっていた人が人物Aに価値を認めたからである。その人は無価値となるか、人物Aの持っている価値の世界において、自分もある位置を占めるために努力するかのいずれかしかない。
もしこの人が努力することも、自分が無価値になることもいやだとしたら、残されている道は人物Aを否定するしかない。つまり彼なんてくだらない、サイン会なんてくだらない、大学教授なんてくだらない、と何もかもくだらないといっている若者は、心の底におそれを持っているのである。
そのうちのどれかひとつでも認めれば、自分は努力するか無価値になるかのどちらかの立場に追い込まれる。そういうようになるのがこわいのである。楽をしながら自分が無価値にならないためには、とにかく、まわりのものをくだらぬといっておけばよい。
要するに自分と関係ないものはすべてくだらないのである。しかしこのように自分と関係ないものはすべてくだらない、くだらないと言っているとそのうち孤立していく。彼にとってくだらないか、価値あるかは自分と関係があるかないかということだけなのである。
自分と関係なければくだらない、自分と関係あれば価値がある、それだけである。このようにくだらない、くだらないといっている人は、きっと自分にすりよって来るような友達のことを、あいつは大したもんだ、ちょっといない人物だと誉めちぎっているに違いない。
しかし人間は、心の中に価値意識を持たなければ、張りつめた、はつらつとしたところはでてこない。対象そのものが問題なのではない、それに価値を付与する精神活動そのものが問題なのである。
100メートルを0.1秒速く走るかどうか、ということで必死になるということ、そのこと自体を見てくだらぬというのはナンセンスなのである。その0.1秒に価値を見いだすことこそ、精神活動そのものなのである。
吹けば飛ぶよな将棋の駒に、賭けた命を笑わば笑えというように、まさに吹けば飛ぶよな将棋の駒よりも、それに価値を見いだした精神が偉大なのである。
サイン会でサインをしてもらうということは、将棋の駒よりも0.1秒よりもくだらないかもしれないが、やはり問題はサインそのものではない。そのサインに価値を見いだす精神活動が問題なのである。くだらぬといえば、人間は死んでしまう以上、何をやってもくだらぬ。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。