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生き方

「自分の人生に他人事な人」に共通する反抗期の欠如

加藤諦三(早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員)

2021年11月11日 公開 2023年07月26日 更新

 

見捨てられる恐怖より服従を選ぶ

「よい子」はよい子にしていることが最も安全なのである。よい子でなければ、自分はこれから先どうなるかわからないという恐怖が、彼らにはある。その恐怖からよい子でいるだけである。

小さな子供は、親から見捨てられたら自分はどうしていいかわからない。彼らにとって見捨てられるということは、殺されるということに等しい。小さな子供が見捨てられる不安を持つということは、殺すぞと脅かされているのと同じことなのだ。

こんな親を持てば、子供は親に迎合し、親がどんなに理不尽なことを言っても従順に従わざるを得ない。そしていつも、どうしたら自分の安全が確保されるかと、必死でよい子を演じることになるのである。

よい子を演じる子供は皆、相手の言うとおりにしないと、どうされるかわからないという恐怖を持っている。言うことを聞かないとあとが怖い。そこで相手の望みがわかるまで意見を言ったりしない。こうすれば喜ばれるということがわかるまで、自分の行動をのばす。

単に「見捨てられる不安」という言葉だけを読むと、その恐怖感は伝わってこないかもしれない。だが、よい子が持っているのは見捨てられる不安というよりも、言うことを聞かなければ何をされるかわからないという恐怖であるといったほうが正しい。

危険がいっぱいで、しかも言葉のわからない外国で、助けてくれる人は一人もいない。そのようなところに滞在することを想像してみよう。近くに一人だけ悪人だけれども、自国の人がいるとする。彼はそこの事情にも通じているし、言葉もできる。腕力もたくましい。そんな時、人は悪人と知りながらも、相手の機嫌を害さないように言うなりになるのではなかろうか。

なにしろ、その人の機嫌を損ねたらあとが怖い。何をされるかわからないし、「それならお前勝手にしろ」と放り出されたら、生きていけない。彼に腹を立てることは、自分の気持ちを不安定にする。

それよりは、たとえ彼にいいようにされても、それに対して理屈をつけて納得しているほうが気分的には落ち着いていられる。相手を憎むより、よく解釈しているほうが気持ちは楽なのである。その人を憎むことは骨が折れるし、心の中で攻撃することにはエネルギーがいる。

相手が自分に対してすることをよく解釈して、文句を言わないほうが心理的に楽である。それに相手を憎むと、何となく自分が頼りなくなる。もともと頼りないものでしかない自分の立場を、その人を憎むことで自覚するからであろう。

こんな場合、誰でも相手に従順になるだろう。ご機嫌を取ったり、顔色を窺ったりして、彼は悪人ではなくてよい人だと思い込もうとする。そして不当な扱いも当然と解釈する。まったく無力な自分としては、何をされてもなす術はない、相手の言いなりになるしかないのである。

万一彼に従わなければ、あとはもっとひどいことをされるかもしれない。しかもその状態はいつ終わるとも知れないのである。そうなれば、人は相手のすることを自分に納得させようとする。相手を悪く解釈することは、勇気のいることである。それは相手に立ち向かうことだからだ。

こういう状況でそんな勇気のある人は、滅多にいるものではない。おおよそこのような状態の、もっと悲惨で深刻な状態を想像してみれば、「言うことをよく聞く素直なよい子」の実際の姿が理解できるのではなかろうか。

このように育った者が、心理的に健全に成長しているはずがない。彼らにとって、いつまでたってもこの世の中は危険に満ちたものである。実際にそのように自我の発達を阻害された人にとっては、誰かの好意と助けなしには生きていけないのである。

 

「真面目ないい人」は敵意を抑圧している

嫌われることを恐れて、自分の感情をそのまま表現できないで生きている大人は、子供の頃の悪夢を見続けている人である。見捨てられたくないという不安からいい子であり続けた、子供時代と同じような日々を過ごしているのである。

大人になっても他人との関係が壊れることを恐れて、自分の感情を表現しようとしない「いい人」なのである。「よい子」から「いい人」へと変わっているだけで、反抗期がない子供と同じである。

自分は人に好かれないというイメージがあるから、相手にやたらに迎合していく。自分は愛されるに値しない人間であると心の底で感じているのである。見捨てられる不安を持つ子供には、反抗期がない。

安心感があれば、子供はある年齢がくると反抗する時には反抗する。だが、見捨てられる不安を感じていると怖くて反抗できない。大人になっても自分の感情を素直に表現できないのは、反抗期なのに反抗できないでいる子供と同じである。

見捨てられる不安を持つ人は、他人に気に入られるために自分を殺すから、いつも不満を感じることになる。不安という感情は極めて強いものであり、これに勝つことはなかなかできない。そこでその不安のためにいろいろな感情の抑制や、抑圧が出てくる。

「また彼らは極めて生真面目であるが、しばしば意識的態度が極端に真面目な人の中に、彼ら自身が自分では気づかない憎悪と恨みが秘められている時がある」アメリカの児童問題のカウンセラー・ウィックス夫人は『子ども時代の内的世界』(秋山さと子・国分久子訳、海鳴社)でこう述べている。

「いい人」は自分の心の底にある実際の感情に気がついていないのである。人の心の底にあるものは、なかなか表面的な行動だけではわからない。たとえば彼らはよく敵意を抑圧している。敵意を抑圧しているからこそ礼儀正しいという結果になることもある。

それは他人に敵意があるからこそ、それが表面化しないように堅苦しい礼儀を守るのである。秩序へ固執するのは、その心の底にある敵意を閉じ込めておくためである。心の底にある他人への敵意が表面化しないように、他人に対してあらかじめ非常な配慮をする。

それが他人への慇懃無礼な態度となる。他人への礼儀正しい配慮の裏に敵意という動機が隠されているのだ。断ったら相手を傷つけてしまうのではないかと恐れるようなことも同じであろう。もともと他人に対して敵意を抑圧している人なのである。

敵意を抑圧しているからこそ、他者を傷つけることを必要以上に恐れるのである。また怒ることに必要以上に罪の意識を持つ人も、敵意を抑圧しているのかもしれない。罪悪感のとりこになっているような人も、どこか心の底に根深い敵意を隠しているのであろう。

【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。   

 

著者紹介

加藤諦三(かとう・たいぞう)

早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員

1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

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