「ヤンキーとエリートの命に差が生まれる?」人工知能が問う倫理的思考
2021年10月29日 公開 2022年12月15日 更新
(写真:Shu Tokonami)
教養や思考の土台を支えるのは、情報をいかに"読む"ことができるかである。しかし、作家で元外交官の佐藤優氏は著書『読む力を鍛える』にて、ネット環境が充実した結果、我々の「読む力」は急速に衰えていると警笛を鳴らす。本稿では『知の操縦法』(平凡社)の文庫版として刊行された同書から、物事の考え方における作法に関する一説を紹介する。
※本稿は、佐藤優著『読む力を鍛える』(PHP文庫)より一部抜粋・編集したものです。
"ワキが悪臭を放つのは何故か"に見る古典哲学
多元的で複線的な思考を身に付けるためには、知の地盤、モノの考え方を作っていかなければならず、そのためにはタテの歴史をおさえていなければいけません。いまの学問は、古代ギリシャから続く、長い歴史の上に成り立っています。
「ある」とはどういうことか、その「ある」が「わかる」とはどういうことか――存在と認識について、人間は長いこと考えてきました。古代ギリシャでは、物事を観察し、体系化・論理化していきました。基本は、観照といって、眺めることからすべてが始まります。
実験という発想はありません。古代ギリシャの大哲学者であるアリストテレスの著作に「問題集」という巻(『アリストテレス全集11』、岩波書店、1968年)があります。
自然学に関するあらゆる問題を考察しているのですが、近代の自然科学、物理学の視点は一切なく、ひたすら観察をして、こうなっているのではないか、ああなっているのではないかと考察・分類をしています。どのようなものか、「悪臭に関する諸問題」という項を見てみましょう。
(一)何故に、尿は、体内に長く留まるとそれだけ悪臭がひどくなるのに、糞は逆に少なくなるのであろうか。或いはそれは、糞は、体内で時間を経過すると、次第に乾いてくるが(ところで、乾いているものはより腐敗し難いのである)、これに反し、尿は、時間が経つと濃くなるし、また新しければ、それだけ最初の飲み物と同じような状態であるからであろうか。
(二)悪い臭いのするものも、それを食べてしまった者には悪臭があるように感じられないのは何故であろうか。或いはそれは、食物の臭いが口蓋を伝わって口中に達しているために、嗅覚がすぐに一杯になり、もはや内部の臭いを以前と同じ程度に感ずることもないし(というのは、最初のうちは誰でもその臭いを感ずるのであるが、しかしそれに触れてしまうと、まるでその臭いが生まれつき自分に備わっているものででもあるかのように、もはや感じなくなるからである)、また外部からきた同じ臭いも、内部の臭いによって消されてしまうからであろうか。
(八)腋の下が身体の部分の中で最も悪臭を放つのは何故であろうか。それは、〔1〕この部分が最も空気の通りが悪いためであろうか。じつに、悪臭はこのような状態の場所に最も生じ易いのであるが、それは、脂肪に動きがないため、腐敗が生ずるからである。或いは、〔2〕この部分には動きがなく、また行使されることもないためであろうか。
――このように、一切実験をしないで、ただ見るだけで考察をしていくのです。このアリストテレスが説いた「質料と形相」という考え方が、近代以前のモノの考え方の基本でした。あるモノは、材料や素材という質料と、つくられたかたちの形相が組み合わされているという考え方です。
ヤンキーとエリートの命に差はあるのか
私はこれからロボットなどの人工知能を社会に導入するにつれ、倫理的問題をどう処理するかが問題になってくると思います。いま、車の自動運転技術が話題になっていますが、事故を起こしそうになって、右か左にハンドルを切らなければならなくなったときに人工知能はどういう判断をくだせばよいのか。
マイケル・サンデル教授の白熱教室でも扱われた問題(第1回「殺人に正義はあるか」)ですが、右に1人、左に5人がいた場合、どちらを選べばよいのか。右には高齢者で左には親子づれだったら、右はヤンキー高校の制服を着た学生で左は高偏差値校の制服を着た学生だったら、どちらを選べばよいのか。
人間の視界の範囲は200度前後なので、事故の時はとっさの判断ということで済まされてきたことが、人工知能はカメラを付ければ360度見渡すことができるため、事前にプログラミングをしておかなければいけません。
保険会社だったら、経済合理性を基準に判断するので、保険金が一番少ないケースを選ぶでしょう。ヤンキー高校の学生と高偏差値校の学生だったら、保険金が少なくて済むヤンキー高校の学生を選ぶのです。
アルゴリズム計算でランダムに選ばせればいいという人もいるかもしれませんが、自分が衝突して死ぬことも含めてプログラミングするかしないかは選ばなければなりません。
ポストモダンのときに、倫理もその時代の大きな物語から出てきたものにすぎず、様々な価値のひとつなのだという価値相対主義が提唱されましたが、人工知能が発展することによって、こういった根源的な問題について考えなくてはいけないようになります。
そもそも日本では、ロボット技術の発展は社会問題にはなりません。高校生のロボットコンテストをニュースで見ても、いいことだなと素直に受け止めるし、iPSやSTAP細胞のような技術開発についても歓迎するムード一色になりますが、ヨーロッパではそうはなりません。
ユダヤ・キリスト教では、人間は、神の息が吹き込まれて作られたという特権的な地位があるので他の創造物を管理する責任がある、ととらえるからです。またカトリックは、創造物に神の意志を読み込む「創造の秩序」の神学をとるので、遺伝子操作にも断固として反対します。
我々日本人の思考の枠組みには輪廻転生があり、前世での善行悪行の違いぐらいで、他の創造物と人間の間に基本的な差はないと考えるし、技術の進歩に対しても宗教的な規制がありません。どちらが正しいかということではなくて、文化的な刷り込みの違いです。
けれど、これから人工知能が発展するにつれて出てくる問題に対して、倫理的な問題を避けては通れなくなるでしょう。