毎日「お話」のことばかり考えていた幼少期
物語を考えることは、物心がついた頃から好きでした。物心ついてから今日まで、「お話」のことを考えなかった日は一日たりともありません。例えば『十五少年漂流記』のようなお話を読んで「もしここがこうだったら」と自分なりに話を広げてみる、とか。どんなときでも頭の7割くらいは「自分の考えたお話の世界」に飛んでいるような、そういう子どもでした。
ちなみに、一番影響を受けた作品は、小学校に入る前に読んだ『うる星やつら』。私はこの物語の雰囲気をあらかじめインストールされたうえで人間界に出てきた、とよく話しています。
また、文章についても、他にはこれといった取り柄がなかったのに、作文だけは書くたびに褒められていたんです。それもあって、小学生の頃には「もしかすると私、将来も書くことでやっていけるんじゃないか」と、薄々勘づいていた気もします。
とはいえ、頭の中の物語を実際に「小説」として初めてまとめたのは大学院生のとき。修士論文を書く際に、タイピングの練習になれば、と思ったのと、あとは現実逃避ですね(笑)。
かなり気軽に「どのくらい書けるかな」という感じで始めましたが、原稿用紙で200枚分くらいのものが書けて、それをたまたま一番締切が近かった新人賞に応募してみたら、最終選考まで残って。それで「私、やっぱこれかも」と思ったんです。
ちょうど就職氷河期で、いくら就職活動をしても、子どもの頃に思い描いていた「まともな大人の生活」みたいなものは厳しい気がしていました。それならもう、私は私のまま、この路線でいくのが良いか、と。
そこから「とりあえず、物語やコンテンツに近い業界に」とゲーム会社に入り、幸運にも本当に電撃文庫で書く機会をもらえて、その先に今の私がいます。
編集者に求めるのは、変な原稿をボツにする力
いったん書き始めると、自分でも先が気になって、その作品以外のことはほぼ考えられなくなってしまいます。なので「最後まで書き終えられない」「結末に着地できない」という悩みとは無縁。書き始めてしまえば、そこからはノンストップです。
そんな私なので、小説を書く原動力は、とにかく「物語を書く楽しさ」に尽きます。それを通じて何かを成し遂げよう、といった動機ではなく、書くこと自体が純粋に楽しいんです。
例えば、一度作品を書き始めると、書き終えるまで休みはつくりません。今作は半年くらい書いていましたが、その間は一度も人と会ったり遊びに行ったりしませんでした。そして、それが全然つらくないんです。自分では「いくら怒られても、遊ぶのをやめられない子ども」に近いと思います。
もちろん、ただ「楽しい」だけでは仕事になるか危ういもの。なので、編集の方には「独りよがりの企画を進めていたら止めて」「変な原稿は必ずボツにして」と言います。ダメなものはダメと言ってくれる方が横にいないと、安心して遊べないんです。
書き手の心の動きが読者にも伝わっていく
といっても、原稿を書き出す前、企画や展開をまとめているときはつらいです(笑)。書き出す前に流れをしっかり固めるほうで、原稿を書き出してからその流れを変えることはほぼありません。今作『心臓の王国』も、プロット(小説の展開をざっくりとまとめた設計図)だけで100ページを超えました。
ただ、実は今回、20年近い作家生活で初めて、物語の結末を当初想定していたものから変えたんです。この終わり方が正しかったかどうかはわからないけれど、この形でなければ、私はこの作品を世に出せなかった。その意味で、今回の作品は特別ですね。
今回は他にも、書き終えた後になってから、作品に「実質的に同じことをしている相手でも、許せる場合と許せない場合がある。その差はどこにあるのか」というテーマが隠れていたことに気づいてハッとする、という一幕もありました。
そんなふうに、それまで自分でもうまく言語化できていなかった考え方や問題提起が、執筆中や執筆後に物語の中からポンと浮かび上がってくる、というのはよくあること。それもまた「書く楽しさ」の一つです。
そして、最近よく感じるのが、私が楽しんで書いていれば、読者にもその楽しさが伝わっていく、ということ。
たとえストーリーが重くても、私が魂を震わせて書いていれば、その感覚が文章越しに読者に伝わる、というか。それこそが私にとって最上のコミュニケーションで、そのおかげで世の中とつながっていられるんだと思うんです。
もしかすると、書くことに限らずどんな仕事にも、そういう側面があるのかもしれません。