17歳の鬼島鋼太郎は夏休みのある日、「アストラル神威(かむい)」と名乗る謎の美青年と橋の上で出会う。神威が鋼太郎の通う高校へ転入してくるのは、それから少し後のことだった。「せいしゅん」を謳歌しようと予測不能な行動をとる神威に巻き込まれながら、鋼太郎はともに高校生活を送ることになる――。
そんな青春小説でありながら、物語が進むにつれて、予測不能な展開を見せるのが、竹宮ゆゆこさんの新作『心臓の王国』(PHP研究所)だ。7月下旬の発売以降、大きな話題を呼んでいる本作に込めた想いについて話を聞いた。
※本稿は、『Voice』2023年9月号より抜粋・編集したものです。
意味なき行為にこそ自由があるはず
――鋼太郎と神威の眩いばかりの日常が描かれる前半から一転して、後半はある「恐ろしい秘密」を巡って緊張感あふれる場面が続きます。青春や生きる意味、さらには社会問題など、さまざまなテーマが描かれている本作ですが、どんな問題意識で書き進めたのでしょうか。
【竹宮】ひと言で言うならば、「献身は本当に美しいのか」という疑問があったんです。この問いは、ある尊敬する作家の方から「竹宮さんは、『献身の物語』をよく書くよね」という感想をいただいたとき、初めて自覚しました。言われてみれば、私が好きなのは慕う相手を懸命に支えたことが報われて恋愛が成就したり、自分を犠牲にして人を救ったりする話かもしれません。
しかしあらためて考えると、「献身は本当に美しい行為なのかな」「私はなぜ当たり前のように、そう考えているんだろう」という素朴な問いが頭のなかに浮かんできました。そしていつしか、その疑問を自分に問い直したいと考え始めたのです。とはいえ、最初から「献身」を大きなテーマとして執筆したわけではなく、書き進めるうちに意識したことではあるのですが。
――本作では主人公・鋼太郎の妹への臓器移植を巡って、「与える」ことの意味や意義が問われていますね。誰かに何かを与え、その見返りとして何かを受け取ったり承認されたりすることは、世の中で当たり前のように行なわれている「ギブ・アンド・テイク」です。しかし見方によっては「テイク」を求めて「ギブ」しているわけで、ある意味では打算的なのかもしれません。
【竹宮】たとえば恋愛でも、みずからを犠牲にすることで相手の気を引くことがあるでしょう。誤解なきように申し上げると、私はそうした献身のかたちを否定しているわけではなく、愛情表現の一種だと捉えています。でも一方で、ただ相手のことを想い、何かをしたり与えたりする純粋な関係性はとても尊いはずだし、人間的な営みと言えるのではないでしょうか。
反射的に助けたい相手がいて、手を差し伸べるには何がしかの障壁があるとしても、理屈抜きに行動を起こしてしまう。本作の主人公である鋼太郎がまさにそんな人物で、それを物語として描くことができれば、私自身、心から納得できると思ったのです。
――いまのお話は、何ごとにも意味を求めがちな社会に対する違和感の裏返しでもあるのでしょうか。
【竹宮】そうかもしれません。「コスパ」「タイパ」という言葉を耳にするようになって久しいですし、とくに生産性という言葉は攻撃性が高いと感じます。そんな風潮に異を唱えたいというわけではありませんが、もしもそれらの言葉に縛られている人がいるならば、本作を通じて「自由にしていいんだよ」と伝えたいですね。
あらゆる行為に意味を求めるのではなく、むしろ意味のない行為にこそ自由を見出していく。そんな生き方だって認められていいはずです。
――あえて流行りの言葉を使うならば、それこそが本来の意味での多様性にもつながるでしょう。
【竹宮】綺麗ごとに聞こえるかもしれませんが、「こうするべき」「こうしないといけない」という固定観念を取り外して、ただ純粋に、自分が思うように生きる人が増えればいいですよね。それに対して異を唱える人がいるかもしれませんが、なぜ他人の人生にそこまで口を出せるのだろうと、私には不思議でなりません。
「ありのままの自分自身」は誰にも否定できない
――本作の執筆を進めるうえで、とくに意識した点を挙げるならば、どこでしょうか。
【竹宮】まずは主人公たちの底抜けに明るい青春時代を描き、その後、展開が進むにつれて重たいテーマに移すことはプロットの段階から決めていました。そうであるならば、前半でなるべくコミカルな世界観をつくり上げたほうが、後半でそれを壊したときの落差が大きくて衝撃を与えられるだろうとは、あらかじめイメージしていたことです。
ただ、じつはエンディングについては、当初に思い描いていた構想を途中で変えたんです。私はこれまで、プロットをかなり綿密につくり上げたうえで、その流れどおりに原稿を書くスタイルでやってきました。ところが今回、最終章の手前まで書いたところで、強烈な違和感に襲われたのです。
私としてはプロットの段階で、頭のなかで一番正しくて自分が腹落ちするストーリーを考えたつもりでした。でも実際に書き進めたら、物語としての正しさや整合性よりも、私自身が登場人物を想う気持ちのほうが上回った。物語の核心に触れるので詳細はお話しできないのですが、その結果として、思い切って結末を当初の構想から変えたのです。
――意外なお話です。これまでの執筆活動でも同じようなことはあったのでしょうか。
【竹宮】いえ、初めての経験です。この作品がより愛されて、何度も読んでもらえるのはどちらの結末だろうかと考えて最終的に決断しました。もちろん大いに悩みましたが、あらためて振り返っても、現在の物語の締めくくり方以外にありえなかったと感じています。
――本作では鋼太郎や神威が「『本当』の自分」「『ただ』の自分」と向き合い、それに拘ったり葛藤したりする様子が生々しく描かれていますね。
【竹宮】私の気持ちとしては、「ただ自由に生きてほしい」というメッセージを読者に伝えたかっただけなんです。鋼太郎は時に神威と衝突しますが、結局は一緒にいます。そこには、「楽しいから」以上の意味はありませんし、その純粋な想いを追求することの何が悪いのでしょうか。
ただし現在の世の中では、SNSを覗けば多くの人が自分の顔を加工していますよね。綺麗な自分でありたいという願いの表れなのでしょうが、それは同時に「『ただ』の自分」を押し殺しているとも言える。また、人と人のつながりが可視化されたことで、一つひとつに目に視える価値がないといけないというプレッシャーを感じるのは、おそらく私だけではないでしょう。
誤解してほしくないのは、私はSNSそのものを否定しているわけではないし、アプリで顔を加工することも一つの生き方なのでしょう。その一方で、この世に生まれ落ちた「ありのままの自分自身」だって認められるべきだし、自分の純粋な想いを追求することも素晴らしい生き方のはずです。
――ただし、鋼太郎も苦しむように「『本当』の自分」と向き合うのは、時に自分自身が抱える負の感情と対峙する辛い作業にもつながるでしょう。
【竹宮】ですから、ある種の覚悟は必要になるでしょうね。でも私は、本当の意味での自己肯定感は、じつはその先にある気がしているんです。いずれにしても、多様性が大事と言うのであれば、各人が自分の価値観のもとに生きられる社会をめざすべきではないでしょうか。
AIに人間の真似をさせる必要はない
竹宮ゆゆこさんご本人
――昨年末から、「ChatGPT」をはじめとする生成AIの進化が大きな話題を呼んでいます。AIが小説を書ける時代が到来したわけですが、小説家の立場からテクノロジーの進化をどうご覧になりますか。
【竹宮】私は機械などに疎い人間ですから、一介の作家としては時代遅れのレアな存在として生き延びるほかないでしょう(笑)。
それはさておき、自分の職業から離れて生身の一個人として生成AIについて考えると、私がChatGPTに期待するのは、人間の想像をはるかに飛び越えた発想です。あくまでもニュースなどで見聞きしているかぎりではありますが、現段階では人間の真似をしている印象で、そうであればChatGPTが書く小説にはあまり興味がありません。
しかし、ChatGPTがもしも人間の真似を止めたならば、思いもよらない奇想天外で面白い作品が生まれてもおかしくないでしょう。もしもそんな未来が訪れるのであれば、私個人としては楽しみです。
――競争相手というよりは、作品を受け取る側の視点で見ているのですね。
【竹宮】たしかにそうですね(笑)。いまChatGPTに求められているのは主に正確性で、人間が入力した問いにどれだけ間違いない回答を瞬時に用意できるかが注目されています。AIが人間よりも正確かつ迅速に情報を処理できるのは間違いありません。
でもそれは、人間の能力の延長線上ではないでしょうか。むしろ人間にはない発想を生み出してもらったほうが、私たちの暮らしや社会は豊かになるはずです。
このように、私はあくまで「使う側」の視点からAIを見ています。主従関係を履き違えてはいけないし、それが最終的には「人間らしさ」とは何かを考えることにもつながるでしょう。
――昨今ではAI脅威論も囁かれていますが、だからといって遠ざけるだけでは、より良い社会をつくるきっかけを失うかもしれません。
【竹宮】あくまでも、AIをどう使いこなして、私たちが幸福になるかを考えるべきでしょう。だからこそ繰り返すようですが、人間の真似をさせる必要はないはずだし、ChatGPTには「お前はお前のままでいいんだよ!」と声をかけてあげたいですね(笑)。
そのうえで私たち人間ははたしてどのように振る舞うべきか、各々の価値観のもとに考えて、それを社会全体で認め合うべきではないでしょうか。