なぜ「ひな祭り」に人形を飾るの? 平安時代まで遡るその由縁
2024年03月01日 公開 2024年12月16日 更新
3月3日は女の子の節句「ひな祭り」。ひな祭りには男びなと女びなのひな人形を飾ることは誰もが知っていますが、そもそもなぜひな祭りに人形を飾るのか、その理由やひな人形に込められた意味を理解している方は少ないのではないでしょうか?
神社・お酒・歌舞伎・相撲など日本文化の様々なルーツがあるとされる山陰地方(鳥取・島根)で呉服店「和想館」を経営。「君よ知るや着物の国」(幻冬舎刊)著者で、着物と日本文化の専門家、池田訓之氏が解説します。
ひな祭りの由来について
そもそも節句とは、中国から伝わってきた邪気を払う日を指します。数字には奇数と偶数がありますが、1という奇数から始まるので、陰陽から世界が成っているという陰陽説によると、奇数が力の強い「陽」で、偶数が「陰」にあたると考えられてきました。
なかでも奇数の同じ数字が重なると力が強すぎて災いが起こると考えられ、その時期の力の強い草花で清めをするというのが節句のいわれです。
3月3日は、上巳(じょうし)の節句として伝わってきました。実際に中国では漢の時代に、徐肇(じょちょう)という男が3月3日に3人の娘を一度に失ったという話があります(續齊諧記より)。
それで、もともとは上巳の節句とは3月の最初にくる巳の日を指していたのですが、3月3日に固定して清めをするようになりました。
それが(旧暦で)日本にも入ってきて、このころは桃の花の咲く季節で桃には不老不死の力があることから、桃酒を飲むなど桃の霊力で清めをするようになりました。あるいは、人の形に紙を切り抜いてその紙で体を拭いて川に流すという形で清めました。
平安時代には、ひいな遊びといって人型をわらでつくる遊びが子供の間ではやり、人形の紙のかわりに、藁のひいなを流すようになります。江戸時代になると、人形を作る技術が高まり、ひいなの代わりに、人形を飾るようになります。これが今に伝わるひな人形飾りです。
ひな人形飾りは、京都御所や江戸城の大奥でも飾られるようになり、江戸時代の後期に向けてどんどん豪華になっていき、18世紀半ばには現在にいたる有職びなとして完成します。とともに、女の子が生まれた初節句としても祝うようになっていきます。
一方で、5月5日が、菖蒲湯につかるなど菖蒲で清める節句から、「尚武」(しょうぶ)と同じ読みで、武を尊ぶ日に置き換えられていき、男の節句という位置づけに変わっていきます。
そして江戸から明治にかけて、女の子の節句と男の節句というように、男女児それぞれの健康を守り子孫繁栄を祈る日に、3月3日と5月5日ですみ分けが行われるようになっていきました。
ひな人形に込められた意味
人形は高価で流すわけにはいかないので飾りますが、ひな人形にこめられた意味は、人型の紙や藁のひいなと同じく、災難から子供を守ってくれる身代わりです。
ですから、ひな人形は2月の節分という旧年の厄払いが終わったころから、女の子を災いから守るために日の良いときに飾り出します、そこに厳密に決められた日はありません。
一説には、節分の後の雨水(うすい)の日に飾ると良縁に恵まれるともいわれています。雨水とは「雪が雨に変わり、雪が解ける時期」という意味で、二十四節気の一つです。
一方で、3月3日が終わったらすぐにしまいなさいといわれています。それは人形が節句の災いを吸い取ってくれているのに、しまわないでいると災いが戻ってくるおそれがあるからです。
ひな人形は平安時代の結婚式を再現している
このように、ひな人形は江戸時代から登場してきたのですが、実は人形たちが演出しているのは、平安時代の結婚式なのです。それは、鎌倉時代から武士が公家から権力を奪い、国を支配してきたのですが、武士階級の心のなかには、平安時代の公家たちが世を支配していた、雅な時代へのあこがれがあったからでしょうね。
平安時代といえば、遣唐使を廃止し外国に学ぶことをやめ、日本独自の文化が花開いた時代です。支配階級であった公家たちは、日々歌を詠み、食べて飲んで、踊り、女性の着物姿は幾重にも色衣を重ねた十二単、男性も衣を重ねた束帯姿。
戦うなど動き回る必要はなかったので、ひたすら豪華に着飾って過ごしたのでした。その優雅さへの憧れから、ひな人形は平安時代の高貴な身分の貴族の結婚式を現しているのです。
人形飾りは、一段目が束帯姿の男びなと十二単の女びな、二段目にはお姫様にお酒をつぐなどの世話をする三人官女。三段目には演奏をする五人囃子。四段目は政治を司る随身、五段目は宮中の雑用係である仕丁、六段目には嫁入り道具、七段目には嫁入り道具とお姫様を運ぶお輿入れ道具が並びます。
六段目には菱餅も並びますが、赤、白、緑の三色は、雪が解けて、草花が茂り桃の花が咲くさまを現し、餅がひし形なのは草花の菱が生命力にあふれていることにあやかるため、つまり子供の健康と子孫繁栄を願っているのです。
現代の着物にも継承されているポイント
現代の着物を着こなす上のポイントの一つに、祝い事は重ねるというルールがあります。これは、まさに平安時代の十二単に代表される、重ね着の文化の継承です。祝いの席では着物と襦袢の衿もとの間に、さまざまな色の生地をはさみます(重ね衿)。
黒留袖はそもそも仕立ての時に、黒地の着物地の下に、白い着物を重ね着しているように、衿から裾まで一枚の白い生地を縫い付けます(比翼仕立て)。帯は袋帯と言って長い帯をしめお太鼓の部分は長いので二重に太鼓をつくって締めます(二重太鼓結び)。
男性も正装着は着物上に羽織と袴を重ねます。これらは、すべて平安時代の重ねる文化の継承です。他にも、十二単衣を着るときに、足元に赤い袴をはいていますが、これは現在では巫女さんが継承しています(緋袴)。
一方でこの袴の股割れをなくしスカート状にした女袴が明治に考案され、学校に通うようになった女学生の着物の裾の乱れを抑えるために、着物を制服として着ていた昭和の初めまで用いられてきました。その後昭和50年代ごろから大正ロマンに憧れる女子大生の卒業式シーンで再び見かけるようになりました。
和の心を育むひな人形
このように、ひな人形は女性の身を守るお守りであり、日本女性の憧れの姿でもあります。
その昔フランシスコ・ザビエルがキリスト教で日本を救おうと来日したところ、日本は確かにヨーロッパと比べ貧しかったのですが、人々は親切で犯罪が少なく、ザビエルがその心の美しさに驚いたという旨の手記を残しています。
それは、常に日本人が着物を着て帯で腹をしめることにより、氣をへそ下のつぼである丹田に落としていたことと、節句などの儀式を繰り返すことで心を清めていたからだと言われています(=腰肚文化 齋藤孝著「子どもたちはなぜキレるのか」ちくま新書)。
雛祭りも大切な節句の一つです。ひな人形は特定の女の子の穢れをとるために準備するものなので、他の女児に伝承するのではなく、女の子が大人に成長し役目を終えると最後は供養して処分するものとされています。
ただ、何歳で処分するといった決まりはないので、娘が生まれても、娘のひな人形とともに、お母さまの男びなと女びなだけは一緒に飾る家もあります。
雛祭りが、美しい日本人の和の心をつくってきた――この文化を、大切に後世に伝承していきたいものですね。