音楽家の青葉市子さんが、5月にはじめてのエッセイ集『星沙たち、』を上梓されました。講談社の文芸誌「群像」での連載がまとめられた一冊で、夢の中での出来事や、日々の暮らしの中に立ちあらわれる感覚が、繊細なまなざしで描かれています。そこには、「生きること」と「死ぬこと」をめぐる思索も静かに漂い、読む者の記憶や感情に触れてきます。
この度、書籍刊行に際してインタビューの時間を頂き、青葉さんの創作の根にある死生観や、日々のなかに見出す生の喜びについて、お話をうかがいました。
生きると死ぬのあわいで考えること
――エッセイの中では、「生きること」と「死ぬこと」に触れる場面がいくつかあります。青葉さんにとって生と死は、日ごろから頭のなかにあるテーマなのでしょうか。
【青葉】あります。むしろ、それが一番大きいかもしれません。
想像しているいろんなことの中で、「どこからが生きてて、どこからが死んでるんだっけ?」というのが、すごく大きなテーマになっていると思うんですね。
人間として生きていると、「おぎゃあ」ってときから生まれたとされていて、1年毎に「誕生日おめでとう」と言われ、死んだら棺桶に入れられて違う名前になって飾られて...みたいな。
私自身は何教でもないんですけど、人の生きると死ぬの区別ってはっきりさせられるシーンがいっぱいありますよね。
でも実はあたりを漂っている、いろんなものが出入りしている中の、分かりやすい結果なだけで、私たちは常に生まれているし、死んでもいるんだよなってよく思います。
例えば、細胞も何ヶ月かで生まれ変わると言うじゃないですか。(窓の外に視線を動かし)見えている木々たちも、私たちにはただの森かもしれないけど、真ん中でいろんなものがサイクルして、生まれ変わって、生きて死んでいて。
私たちも今こんなお洋服を着ていますけど、素っ裸になって、あの辺り(窓から見える森)にポーンっていって、そのまま命がシューってゆっくり終わっていったら、あれになるんだよなあとか。モグモグされてね。気づいたら「ああ、木だ~」みたいな。
――人間もサイクルのなかにあるということですね。
【青葉】人間が特別に違う位置に来ちゃっているように感じるけど、そんなことは全くなくて。
夢を毎日見るんですけど、それがヒントになっていて。夢の中って時間軸がバラバラなんですね。どの時代にもあみだくじみたいに飛んでいくんですけど、この世界ではもう亡くなってしまっている人に普通に会って話したりもします。
そういうことが夢の中で日常的に行われていると、やっぱり「どこからが生きているんだっけ?」とか、逆に今こうやって生きて話せる人のことを、貴重な生き物として感じ取ることもできます。
――青葉さんにとって、生と死は物事を考えるときの軸のようなものなのですね。
【青葉】そうですね。砂浜を見ていると、これってかつて本当に各々で生きていた生物たちが砂浜になっているんだよなと思います。
私たちの記憶とか、生きてきた印みたいなものも、そうやってどこかに凝縮されて、また誰かのイメージになっていくのかなと。
――そう考えると、死ぬことは必ずしも悲しいことではないかもしれませんね。
そうなんですよね。悲しむのが時々おかしなことに思えることもあります。亡くなると一時的に会えなくなる気はしますけど、そうでもなかったりする。
だとしたら、今お互いに生きているけど、長い間会えない人の方が寂しかったりする。
生身で感じられることを本当に大切に思いたい
――青葉さんは「生きていて良かったな」という瞬間はどんなときですか?
【青葉】1分1秒、全部そう思っています。ご飯がおいしいとか、ベッドがふかふかとか、今日も無事に息を続けて心臓も止まらないでいられたとか。心臓って自分の意思で動かせないじゃないですか。呼吸もそうですけど「生きててくれたこの体、ありがとう」って思いますね。
でも、こう毎日を過ごせることが当たり前じゃない境遇の人たちが、地球のどこかに今日もいる。だから、そういうことを感じながら、ちゃんと刻んで生きていきたいなと思います。
音楽を共有しているときとか、コンサートでステージにいてみんなの顔を見ている時とか、「よくここまで、みんな生きてきてくれてありがとう」って気持ちになります。
変わってあげられないですもんね、その人の苦しみは。けれど、話を聞いたり、同じところに集まって音楽で癒やしたり、癒やされたりってことはできるので。
そういうところでじわじわ入り込み合って、一緒に支え合って生きていけたらいいですよね。
――新型コロナの時期には人との接触が制限された一方で、ネットを活用した動きがたくさん生まれましたね。でも、コロナが落ち着いた今もどこか効率を重視する世の中にあって、人との関わりが希薄になったままなのではないかと思います。そんな社会の風潮に何か感じることはありますか?
【青葉】一日中こうやって(スマートフォンを)見て過ごすこともできると思います。でも、例えば、100年間どこかにこの体とスマートフォンが一緒にあり続けたら、多分体の方が先に朽ちるじゃないですか。あっという間に私たちは死んでしまうから。
だから、生身で感じられることを本当に大切に思いたいし、思ってほしいなと感じるときは多々ありますね。
効率を優先する人は、確かに増えてきていると感じます。その中で削ぎ落されてしまった、人々のちっちゃな気持ちの動きとか、そういうものってたくさんあると思うんです。
だから、どれだけそれを思い出すことができるのかトレーニングして生きているっていう実感があったらいいんじゃないかなって。「おいしいね」って言い合えるとか、お互いの体温を感じることとか。
自然との向き合い
――青葉さんの書く文章や、作る音楽には自然の描写も多く含まれています。自然や環境について、どのような思いがあるのでしょうか?
【青葉】すべてがすべてに影響し合っていると思います。
自分が今こうしているのって、自分だけがポンって存在しているわけじゃなくて、地球だったり、惑星だったり、大きな生命体の中のひとかけらであると思うんです。
自然について考えましょうというとき、分かるけど、分かんないような気がいつもしていて。どこからが自然って言うんですか?と。
例えば、今日、汗をかいて暑いですねというのも、自然の中の一つの現象だと思ってるので、そこの解釈に悩んでしまうんです。
でも、社会的に言われている"自然"も理解できます。
気温が上昇しているというニュースが流れると、自然という人間とは切り離された存在がそういう状態になっていて、「私たちが対策に取り組んで直してあげなきゃ」という分断みたいなことを感じるんですけど、そうじゃなくて。
私は海が大好きで、海に入ったりするときに、流れ着いた海洋プラスチックが目に入ります。データにも出ていましたが、その海洋プラスチックもちっちゃくなって、最終的に私たちが食べるものとか、空気などに混ざって脳に蓄積するそうですね。
だから、もっと自然と深く混ざり合って、感じてから、あらためて「気温が上昇してるってことは?」「ゴミをたくさん出すってことは?」って考えると、大きなアクションができるのかなと考えています。
――自然と一体化していくという考え方に近いですか。
【青葉】自然と人もそうだし、人と人同士もそれが必要だと思います。
(取材・編集:PHPオンライン編集部 片平奈々子)
【青葉市子(あおば・いちこ)】
1990年生まれ。音楽家。自主レーベル〈hermine〉代表。
2010年のデビュー以来、8枚のオリジナル・アルバムをリリース。クラシックギターを中心とした繊細なサウンドと、夢幻的な歌声、詩的な世界観で国内外から高い評価を受けている。2021年から本格的に海外公演を開始し、数々の国際音楽フェスティバルにも出演。音楽活動を通じて森林・海洋保全を支援するプロジェクトにも参加している。2025年1月にはデビュー15周年を迎え、約4年ぶりとなる新作『Luminescent Creatures』を2月にリリース。 同月下旬からキャリア最大規模となるワールドツアー〈Luminescent Creatures World Tour〉を開催し、アジア、ヨーロッパ、北米、南米、オセアニアで計50公演以上を予定。
2023年5月号より『群像』でのエッセイ連載を開始、本書が初の単行本となる。FM京都〈FLAG RADIO〉では奇数月水曜日のDJを務めるほか、TVナレーション、CM・映画音楽制作、芸術祭でのパフォーマンスなど、多方面で活動している。







