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連載小説「報復捜査」 第9回 安東能明

安東能明(小説家)

2026年10月28日 公開

連載小説「報復捜査」 第9回 安東能明

殉職した公安部の刑事が追いかけていた事件に隠された真実とは!?

 

第9回

5

吉祥寺署に車を停めた。湿った風を受けながら狭い路地を歩いた。目指す店は、古びた雑居ビルがひしめく私道の奥にあった。『酒処 まこと』と染め抜かれた、色褪せた紺の暖簾(のれん)が、暗がりで小さく揺れている。引き戸を開けると、煙草とモツの匂いが一度に来た。

カウンター八席だけの小さな店だ。奥のふたりがけのテーブルに、新井が先に来て待っていた。ホッピーのジョッキが、もう半分ほど空いている。となりに伊場が腰を下ろすと、新井は顎でカウンターの奥を指した。

「なんか頼め」

伊場は焼酎の水割りを頼んだ。

しばらく、ふたりは黙っていた。カウンターでひとり飲んでいる常連らしい男が、チューハイのグラスを傾けている。ここは警官が公務の垢を落とすために使う店ではない。

「例のものは?」

新井は何も言わず、小脇に抱えていたビジネスバッグから、私物の古いタブレットを取り出した。画面の表面には細かな傷が無数に走っている。それを伊場の目の前へと滑らせた。

「本部の連中が回収していった事件現場の映像だ。本来なら、うちの署で保管すべきものだが、公安がまとめて持っていった。その前にバックアップを取っておいた」

新井の声は、いつになく低く、沈んでいた。

「見てみろ」

伊場は運ばれてきた水割りを一口だけ含み、乾いた喉を潤してから、タブレットの再生ボタンを押した。

画面を開くと、薄暗い空の下、雑居ビルの屋上が映っている。カメラの角度は低く、となりのビルから撮ったとおぼしい。画質は粗いが、当日の状況はわかる。

阿久津が端にいる。女児を抱えている。

新井が映像を少し進めた。

小暮が現れた。

ひどく取り乱した顔で、給水塔の方へ走っている。右手に何かを持っている。

伊場は、息が詰まった。

映像の中の小暮は、伊場の方向へ向かいながら、叫んでいる。声は拾えていないが、唇の動きでわかった。撃つな、と言っている。

そして引き金を引いた瞬間。伊場の体が後方へ傾き、小暮が斜めに倒れる。

伊場は画面を止め、指先で静かに巻き戻した。そして、もう一度再生する。

やはり、違和感があった。昨日、屋上で感じたあの胸のつかえが、動画として視覚化されてもなお、消えない。それどころか、映像として客観的に見ることで、その異様さがより際立って感じられた。

「どこがおかしいのか、言葉にはできないんですが......」伊場はつぶやくように言った。「現場の配置、タイミング、すべてが急すぎる。阿久津が人質を取ってから、発砲に至るまでの時間が短すぎる。まるで、説得の余地など最初から与えないと決めていたかのように」

伊場はグラスを持つ手に力が入りすぎているのに気づいて、テーブルに置いた。

新井は、顎に手を当てた。

「同感だ」

低い声だった。

カウンターの男が、新しいチューハイを頼んだ。店の大将が応じる声。

モツ煮が運ばれてきた。厚手の皿に、コンニャクと豆腐と豚モツが煮込まれている。伊場は箸を取ったが、すぐには食べなかった。

新井は新しいホッピーを頼み、中身を足してからぐっと飲んだ。

「曽我副署長が、直接命令を出したな」新井が言う。

「はい」

「本来、現場の発砲許可は署長が出す。副署長には、その権限がない」

「わかっています」

「曽我はあの日、署に残っていた。無線で直接、各班に命令を出した。現場指揮官のおれを飛ばして」

新井は怒りを押し殺すように、顎の手入れされていない無精髭を撫でた。

「小暮の死には、おまえが考えているような『偶然の事故』とは別の理由があるのかもしれない」

「別の理由?」

伊場は新井の目を真っ直ぐに見つめた。新井は声を低くした。

「これは、おれが昔馴染みの新宿署のマル暴から聞いた話だ。表には一切出ていない、完全に伏せられた」

新井は少し間をおいた。

「先月五月九日、土曜日のことだ」

新井はジョッキを置いた。声をさらに落とした。

「阿久津は新宿二丁目の会員制バーで飲んでいた。そこで、ある若い会社員と口論になったらしい。阿久津はかなり酔っていて、その会社員に激しく言いがかりをつけた。脅されたと思った会社員はあわてて店を出て、そのビルの急な階段を下りようとしたんだが、足を滑らせて一番下まで転落した」

伊場は、黙って聞いた。

「会社員は頭を打った。意識不明で運ばれて、一週間後に死んだ」

沈黙。

「それが、阿久津の逃走と、どう関係するんですか」

「死んだ会社員の名前は、飯田祐介(ゆうすけ)。二十六歳。ただの会社員なら、よくある不幸な事故で終わったかもしれない。だがな、その父親の名前を聞いて耳を疑った。父親は、飯田義男(よしお)という男だ」

新井の言葉に、伊場は息を呑んだ。

「飯田義男......警視庁生活安全部の参事官ですか」

「そうだ。ノンキャリ叩き上げの最高位、生安部の重鎮だ。そして、うちの曽我副署長の元上司であり、二十年来の強固な後ろ盾(バック)だ。曽我がここまで異例の出世を遂げられたのは、すべて飯田義男の引き立てがあったからだと言われている。新宿署は阿久津の容疑を傷害致死で固めようとしていたが、証拠不十分で立件を見送らざるを得なかった。参事官の無念と怒りは想像を絶するものだったろう」

新井はグラスを置き、伊場の顔を覗き込んだ。

伊場の頭の中で、何かが像を結びかけている。

「息子が阿久津のせいで死んだ」

「ああ」

「参事官が、曽我副署長にそれを伝えて......」

「言ったかどうか、そこまではわからない。だが、曽我が動いたのは確かだ。阿久津を取り調べ室から逃走させ、屋上で射殺した。故意かどうかを証明するのは難しいが、状況から見れば、そう考えるのが自然だ」

伊場は、目の前が微かに揺れるような感覚を覚えた。

副署長による報復の殺害。

阿久津は、飯田義男の息子を間接的に死なせた。飯田の恨みを晴らすために、曽我が動いた。阿久津を逃走させ、人質事件を起こさせ、発砲命令を出した。小暮はそのとばっちりで死んだ。

それが、真相なのか。

だが。

伊場は自分の内側に、何かが引っかかっているのを感じた。

どこかが、合わない。

何が合わないのか、まだわからない。だが、すんなりとこの説に呑み込まれる気になれなかった。

「それが正しいとすれば、小暮はなぜ屋上に来たんですか。なぜ阿久津を守ろうとしたんですか?」

新井は答えを探る顔つきになった。

「わたしが阿久津の狙いをつけた射線に、偶然小暮が飛び込んでしまった......」伊場が言う。

「形の上では、そういうことになる。小暮は本部の人間だ。なぜだか知らんが、阿久津を必死になってマークしていた。だからあの屋上にも現れた。だが、副署長にとっては、小暮がそこにいること自体が計算外だったはずだ。曽我の目的はあくまで阿久津への復讐だったんだからな」

一警官の出世欲と私的な報復があの惨劇の引き金だったという説明は、普通の刑事であれば誰もが納得する内容だった。

だが。

伊場の心の奥底にある「違和感」は、その解説を拒絶していた。

伊場は拳を握りしめた。新井の言う曽我副署長による私的復讐は、うなずける推論で、現場の状況を説明できているように見える。しかし、もしそれが真実だとしたら、あの取調室の通信回線を前夜のうちにバイパス配線に切り替えるような工作を、副署長が単独でできるだろうか。それに、小暮が前々日に伊場に残した電話の言葉『おれみたいに、ならないでくれ』『絶対に警察を辞めるな』。あの血を吐くような警告の重みと、単なる「復讐の現場に居合わせてしまった不運」という結末が、どうしても結びつかなかった。

「......腑に落ちません」

伊場がつぶやくと、新井はふっと自嘲気味に笑った。

「おまえがそう言うのも無理はない。だけど、これがおれたちのいる組織の現実だ。綺麗事じゃ動かない。上の人間の胸三寸で、現場の命なんていくらでも使い捨てられる」

新井はそれ以上、ホッピーを口にしようとはしなかった。

「課長」

「なんだ」

「小暮は、阿久津の取り調べを通じて、何か大きなものをつかんだと思います。アイテン、という言葉です。同房者の話では、阿久津はそれを切り札にして、これさえあればおまえらなんか一発だ、と公安を脅していたらしい。中身が何なのかは、まだわかりません。小暮はそれを知っていたから、阿久津が死ぬのを阻止しようとした。そんなふうに考えました」

新井の目が動いた。

伊場はそれを知った由来を話し、ナプキンにボールペンでアイテン、と書き込んだ。

「アイテン......」

「ご存知ですか?」

「聞いたことないぞ」

「小暮は、それを組織に報告していません。単独で動いていた。それも腑に落ちないんです。飯田参事官の報復だけが理由なら、小暮の行動の説明がつかない」

新井は、しばらく答えなかった。

「それともうひとつ。小暮は亡くなる一週間前に、川本百合という女と会っています。この名前は聞いたことありますか?」

「そっちも初耳だ。誰から聞いた?」

「小暮の奥さんから」

新井は箸でモツ煮を一切れ口に入れた。

「伊場」

「はい」

「曽我の件は、動きがある。公式に動いている連中がいる。おまえが関わらなくても、そっちで解決されるかもしれない」

「公式に、とは」

「それ以上は言えない。おまえは動き回るな。いま、おまえの動きを見ている者がいる」

伊場が新井の顔を見つめると、新井は目を外した。

それだけで、わかった。新井もまた、何かに挟まれている。曽我の件を動かしている公式の連中が、新井にも圧力をかけている。

伊場は、グラスを傾けた。

新客が入ってきて、路地の風が流れてきた。

どこかが、合わない。

その感覚だけが、胸の中にしこりのように残っていた。

 

翌朝、白のカッターシャツとスラックスを履き、リネンのジャケットをつかんで部屋を出た。寮の駐車場に停めてある車に乗り、五日市街道を都心に向かった。どんよりとした薄曇りで、車窓から吹き込む梅雨入り前の湿った空気が肌にまとわりつく。環状七号線沿いにある高円寺署の庁舎は、古びてコンクリートの壁は排気ガスで黒ずんでいた。署の裏手に車を停めて、ジャケットを羽織った。正面玄関から入った。

エレベーター横の案内板を見て、四階まで上がる。交通捜査係のプレートがかけられたドアを開けた。室内には事故の現場見取図や、車両のナンバーが書き込まれたホワイトボードが並び、独特の気怠(けだる)い空気が漂っていた。

カウンターの奥で、机の上の書類の山と格闘している若い男がいた。細身の体に合っていない、少し大きめの制服を着た男だ。目が合った。周囲にほかの署員の視線がないことを確認してから、警察手帳を素早く提示した。

男の胸元に、『末次』のネームプレートがある。

「吉祥寺署の伊場といいます。少しだけ、いいですか」

「はあ......うちに何か御用ですか?」

末次は、少し警戒した顔をした。他署の刑事が突然訪ねてくる。何事か、という顔だ。

伊場は声を一段と潜め、カウンター越しに身を乗り出した。

「じつは、こちらの管内で六月一日に起きた、川本百合さんのひき逃げの件で少し伺いたくて来ました。いま、うちで追っている中国系の不法就労ブローカーの件で、川本百合という名前が重要参考人として浮上しましてね」

「ブローカー、ですか?」

「ええ。彼女が亡くなる直前、そのブローカーの周辺者と接触していた形跡があるんです。うちとしては、彼女の交友関係や行動の裏が取れればと思って。こちらの捜査を邪魔するつもりは毛頭ありません。ただ、彼女が事故の直前に誰と会っていたか、そちらの捜査報告書にある遺留品や足取りのデータだけ、少し突合させてもらえませんか。こちらのヤマを崩すわけにはいかないんで、立ち話で構いません」

末次は眼鏡のブリッジを押し上げ、困惑したように周囲の机を見た。課長やほかの係長たちは、打ち合わせをしているのか、席を外している。

「いや、そう言われても、正式な開示手続きを踏んでもらわないと......」

「わかっています。ただ、こちらも時間がなくて。参考人の勾留期限が迫っているんです。川本さんが事故当夜、どこから歩いてきて、どこへ向かおうとしていたか、その概要だけでも教えていただければ、すぐに帰ります。末次さんのご迷惑になるようなことは絶対にしません」

伊場はまっすぐ末次の目を見つめた。

「......ほんとうに、ここだけの話にしてくださいよ。うちの課長に見つかったら大目玉を食らいますから」

「感謝します」

末次は小さくため息をつき、カウンターの下から一冊の厚いファイルを引っ張り出した。

「これ、捜査報告書の概要です。詳細な捜査資料はお見せできませんが、概要の範囲で」

「助かります」

末次がカウンターの上に置かれたファイルを開いた。

「川本百合さん、二十九歳。事件があったのは六月一日の午後八時四十分頃です。現場は高円寺(こうえんじ)南の青梅(おうめ)街道から一本入った生活道路。徒歩で近くにある自宅へ向かう途中でした。雨が激しく降っていて、視界は最悪でした。死因は、激突の衝撃による脳幹損傷。頭部をフロントガラスあるいは街路灯に強打しており、ほぼ即死状態だったようです」

事故現場の住所を頭に刻む。

「目撃者は?」

「それが、ないんです」

末次が肩を落とした。

「住宅街で、しかも大雨でしたからね。近隣の住民が『衝突音らしきものと、車が急加速して走り去る音を聞いた』と証言しているだけです。目撃情報はありません」

末次が説明しながら、ページをめくった。

「被疑車両については、現場周辺の防犯カメラを精査しました。現場に残された塗膜片の分析と合わせて、捜査の範囲を現場から十キロ圏まで広げて、修理工場や車体整備業者にも当たっています」

「進捗は?」

「......難しい状況です」と末次は言った。

その言い方が、少し引っかかった。

難しい状況。それは言葉通りの意味か。

伊場は末次の顔を見た。末次は伊場の目を避けた。

末次のポケットにある携帯が振動した。末次は一度だけ画面を見て、すぐポケットに戻した。

「遺留品や、車両の特徴は何かつかめていないんですか?」

「現在は通過した車両のデータを洗っている最中ですが、対象が多すぎて絞り込みが追いつきません。現場に、加害車両のものと思われるフロントグリルの破片と、わずかな塗膜片が残されていました。それらを元に容疑車両のリストアップを進めています。これを見てください」

末次が指し示した捜査報告書のページには、事件当時に現場周辺を通過した、あるいは事故後に不審な動きを見せた車両や工場のリストがいくつか並んでいた。大半は確認済みとして斜線が引かれている。

そのリストの端に、伊場の目が留まった。

〈つづく〉  

プロフィール

安東能明(あんどう・よしあき)

小説家

1956年、静岡県生まれ。明治大学政経学部卒。浜松市役所勤務の傍ら、94年『死が舞い降りた』で日本推理サスペンス大賞優秀賞を受賞しデビュー。2000年『鬼子母神』でホラーサスペンス大賞特別賞、10年には「随監」で日本推理作家協会賞短編部門を受賞。緻密な取材が生む警察小説やサスペンス小説で多くのファンを魅了している。

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