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- 連載小説「報復捜査」 第2回 安東能明
殉職した公安部の刑事が追いかけていた事件に隠された真実とは!?
第2回
屋上へ出ると、灼けた陽射しが叩きつけてきた。伊場は給水塔の陰に身を寄せ、銃を構えた。グリップが汗で滑り、何度も握り直す。訓練のときより、銃が重い。受令機に、周囲のビルへ展開したSATの報告が断続的に入る。南側も東側も配置を終えたという。狙撃手からは、照準確保の声が届いた。
視界の先、ビルの端のフェンスを背に、阿久津が立っている。左腕で女児を抱え、右手の包丁を首筋に当てている。女児は泣き疲れたのか、ぐったりと身を預けていた。
ここからなら頭部を狙える。阿久津まで、およそ十五メートル。照準も取れた。伊場は片手で銃を構えた。指の腹が引き金に触れる。手が震えた。汗がグリップを伝う。深呼吸をひとつ。落ち着け。だが鼓動は速いままで、耳の奥に細い鳴りが立っている。訓練の標的は、段ボールの的だった。いま照準の中にいるのは、息をして、汗をかいている人間だ。
「阿久津さん!落ち着いてください!」
拡声器越しの新井の声が、屋上に響く。新井は出入口の近くで、両手を広げていた。
「お子さんを放してください。そうすれば、あなたの話を聞きます」
阿久津が、裏返った声で叫んだ。
「うるせえ!近づくな!近づいたら、このガキをぶっ殺す!」
包丁が首筋に食い込む。女児が、小さく悲鳴を上げた。伊場は引き金に指をかけたまま、動けない。命令は、まだ出ていない。
受令機が淡々と刻む。
『各班、状況報告』
『SAT一班、南側ビル屋上、配置完了』
『SAT二班、東側ビル六階、配置完了』
『狙撃手、照準確保。いつでも撃てます』
いくつもの銃口が、阿久津の一点へ集まっている。伊場は屋上を見回した。刑事課の面々が、各所に散っている。その中に、小暮の姿はない。取り調べ中に被疑者を逃がしたのなら、まっさきに現場へ呼ばれ、責めを負う立場のはずだ。なのに、どこにもいない。
新井が、もう一度声を投げる。
「阿久津さん、何が不満なんですか。話してください」
「おれは何もしてねえ!なのに、なんで捕まるんだ!」
「不法就労助長罪です。あなたは中国人留学生を――」
「そんなもん、みんなやってる!なんでおれだけなんだ!」
声が、うわずっていく。
「それに、あいつらが――」
言葉が、途中で切れた。阿久津の顔が、何かに追いつかれたように歪む。
あいつら。
この男は、ただの不法就労のブローカーではない。別の何かに追い詰められている。だから公安が動き、小暮が単独でこの男と向き合っていた。
「阿久津さん、誰があなたを追い詰めているんですか」新井が声を和らげる。「話してください。わたしたちが守ります」
「うそだ!」阿久津が叫んだ。「おまえらも、あいつらの仲間だ!おれを殺す気だろ!」
「そんなことはしません。わたしたちは警察です。市民を守るのが仕事です」
「警察?笑わせるな!」
阿久津の目に、底の見えない光が差した。
「警察が、一番信用できねえんだよ!」
声が裏返った。その一言だけ、ほかの叫びと手触りが違った。怒りではなく、怯えの底から押し出された響きだった。伊場は照準の先のその顔を見つめた。額に汗が浮き、目は落ちくぼみ、喉が小刻みに動いている。この男はただの不法就労のブローカーではない。何かに追われている。その何かに、公安が、小暮が触れていた。だが、いま手の中にあるのは銃だけだった。
女児が、また泣き出した。喉の奥から、もう声とも言えない細い音が漏れる。伊場は照準を保った。グリップを握り直す。汗が指の間を滑った。
午後一時四十五分。
膠着(こうちやく)が続いた。新井は声の調子を変えずに、条件を並べていく。
「弁護士を呼びましょう。あなたの話を、ちゃんと聞いてくれる人です」
阿久津は首を振った。
「飲み物を用意します。喉が渇いているでしょう」
阿久津の目が、一瞬だけ揺れた。が、すぐに歪んだ。
「いらねえ!どうせ毒でも入ってるんだろ!」
「そんなことはしません」
「うそつけ!」
言葉が往復するだけで、何も動かない。時間だけが、屋上の熱の中で溶けていく。女児の泣き声は途切れ途切れになり、やがて疲れ果てて掠れた。伊場のワイシャツは、背中まで濡れていた。銃を持つ手の感覚が、汗で遠くなっていく。
無線が入った。
『全隊、強行突入準備』
伊場は受令機を押さえた。聞き違いではない。交渉はまだ途中だ。膠着はしているが、女児は生きている。突入する局面ではない。
『副署長命令。阿久津を制圧する。発砲を許可する』
曽我(そが)。署に残っているはずの男の名が、なぜ現場の指揮系統を飛び越えて流れてくるのか。伊場は新井を見た。新井の顔から、交渉していたときの落ち着きが消えていた。眉の間に皺が寄り、唇が薄く開いて、言いかけた何かが止まる。指揮官が初めて見せた表情だった。
『撃て』
命令が、耳の奥で硬い音を立てた。
伊場の身体が、先に動いた。給水塔の陰から飛び出し、両足を開いて銃を構える。照準を阿久津の頭部へ。息を整えようとして、整わない。引き金に、指の腹が触れる。
照準の先へ、横から人影が割り込んだ。
小暮だった。汗で濡れたワイシャツが胸に張りつき、髪が額に乱れかかっている。右手に拳銃を提げていた。公安の刑事が現場に銃を持ち込むことはない。貸与には署長決裁がいる。誰がこの男に銃を握らせたのか――その問いが像を結ぶより早く、血走った目が伊場をまっすぐにとらえた。
「撃つな!」喉の奥から絞り出す声だった。「伊場、撃つな!」
「小暮、下がれ!」新井が叫ぶ。「射線上だ!」
小暮は動かない。阿久津でも女児でもなく、伊場だけを見ている。一昨日の深夜、受話器の向こうで沈んでいったあの声が、いまの目に重なった。おれみたいに、ならないでくれ。
阿久津が、包丁を女児の喉に押し当てた。皮膚がへこむ。短い悲鳴が裂けて、途切れた。
猶予は、もうなかった。伊場の指が引き金を絞り込む。乾いた銃声がひとつ、屋上の熱気を打った。
撃った。
その手応えが腕に残るより早く、小暮が銃を持ち上げた。銃口が伊場の胸の高さで止まる。
「やめろ!伊場、やめるんだ!」
手が震えていた。それでも指は引き金にかかっている。本気か。本気でおれを撃つのか。問いただす一秒もなかった。考えるより先に、訓練で身体に刻まれた動作が伊場を押し出した。脅威を排除しろ。生き延びろ。これは小暮だ、親友だ――その声を、別の声が踏み潰す。撃たれる。
照準を合わせた覚えはない。気づいたとき、銃声はもう鳴り終えていた。
小暮の首から血が噴いた。白いワイシャツに、赤がほどけるように広がっていく。膝が折れ、上体が斜め後ろへ傾いで、ゆっくりと屋上に沈んだ。ほとんど同時に、周囲のビルから銃声が連なった。阿久津の身体が弾かれて吹き飛び、包丁が陽光を撥ね返して宙を舞う。
女児が、放り出されるように転がり出た。刑事のひとりが駆け寄って抱き上げる。大丈夫だ、もう大丈夫だ――その声だけが、やけに遠くで優しかった。規制線の向こうから、母親が転がるように駆け込んできた。受け取った我が子を、声にならない声で抱きすくめる。女児の泣き声が、その肩のあたりで、ようやくほどけていった。
伊場は動けなかった。銃を握ったまま、倒れた小暮を見ている。流れ出た血が陽射しを受けて、黒く照り返していた。
おれが撃った。
親友を、おれが撃った。
受令機が、事務的に状況を刻んでいく。
『人質、確保』
『容疑者、制圧』
『負傷者あり。小暮刑事。至急、救急車を』
負傷者、という言葉が、小暮の名と結びつくのに間があった。指の力が抜け、銃が手から滑り落ちる。金属が屋上を打つ音が、やけに大きく響いた。膝が屈み、伊場はその場に沈んだ。
誰かが、肩を掴む。
「伊場!しっかりしろ!」
新井の声が、水の底から届くように遠い。伊場は小暮だけを見ていた。倒れたまま、小暮の目がこちらを向いている。唇がかすかに動いた。言葉の形を作ろうとして、声にならない。血だけが流れ続ける。
救急隊が、屋上を走ってきた。オレンジ色が小暮を囲み、担架に乗せ、胸を押し始める。手のひらが規則正しく上下する。それでも、押し当てたガーゼが、見る間に赤を吸っていった。伊場は膝をついたまま、それを見送ることしかできなかった。
現場が動き出す。阿久津の身体に、白い布がかけられた。血痕の縁にチョークの線が引かれ、カメラのシャッターが連続して鳴る。すべてが手順どおりに、淡々と進んでいく。その手順の輪から、伊場ひとりが外れていた。話しかけてくる声があった。意味が、像を結ばない。耳鳴りの向こうで、世界が薄い膜越しに動いていた。
午後二時五分。事件は終わった。誰かが、そう告げた気がした。
屋上の床に、ふたつの血だまりが滲んで、ひとつに溶けかけていた。小暮の血と、阿久津の血が、陽に灼かれて境目を失っていく。
新井が、腕に手をかけた。
「立てるか」
伊場は首を振った。膝に力が戻らない。
「無理するな。救急車を――」
「いえ」声が掠れた。「大丈夫です」
大丈夫なものは、何ひとつなかった。それでも、ほかに言える言葉がなかった。伊場はゆっくりと立ち上がった。膝が笑い、踏み出した一歩が床を探る。それでも、立てた。
出口へ歩く。手すりを頼りに、階段を一段ずつ降りる。背後から足音がついてきたが、振り返らなかった。ビルを出ると、規制線の外で、野次馬の視線が一斉に刺さった。その圧を、皮膚は感じても、心は受け取らない。
親友を撃った。その一行だけが、胸の中で繰り返し書き直されていく。
伊場は空を見上げた。六月の青が、容赦なく晴れ渡っている。まぶしさに目を閉じると、暗がりの奥で、あの夜の声が戻ってきた。
おれみたいに、ならないでくれ。
その言葉が何を指していたのか。閉じた目の裏に、答えの形をなさない暗がりだけが、深く沈んでいた。
〈つづく〉








