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連載小説「報復捜査」 第2回 安東能明

安東能明(小説家)

2026年09月09日 公開

連載小説「報復捜査」 第2回 安東能明

殉職した公安部の刑事が追いかけていた事件に隠された真実とは!?

 

第2回

屋上へ出ると、灼けた陽射しが叩きつけてきた。伊場は給水塔の陰に身を寄せ、銃を構えた。グリップが汗で滑り、何度も握り直す。訓練のときより、銃が重い。受令機に、周囲のビルへ展開したSATの報告が断続的に入る。南側も東側も配置を終えたという。狙撃手からは、照準確保の声が届いた。

視界の先、ビルの端のフェンスを背に、阿久津が立っている。左腕で女児を抱え、右手の包丁を首筋に当てている。女児は泣き疲れたのか、ぐったりと身を預けていた。

ここからなら頭部を狙える。阿久津まで、およそ十五メートル。照準も取れた。伊場は片手で銃を構えた。指の腹が引き金に触れる。手が震えた。汗がグリップを伝う。深呼吸をひとつ。落ち着け。だが鼓動は速いままで、耳の奥に細い鳴りが立っている。訓練の標的は、段ボールの的だった。いま照準の中にいるのは、息をして、汗をかいている人間だ。

「阿久津さん!落ち着いてください!」

拡声器越しの新井の声が、屋上に響く。新井は出入口の近くで、両手を広げていた。

「お子さんを放してください。そうすれば、あなたの話を聞きます」

阿久津が、裏返った声で叫んだ。

「うるせえ!近づくな!近づいたら、このガキをぶっ殺す!」

包丁が首筋に食い込む。女児が、小さく悲鳴を上げた。伊場は引き金に指をかけたまま、動けない。命令は、まだ出ていない。

受令機が淡々と刻む。

『各班、状況報告』

『SAT一班、南側ビル屋上、配置完了』

『SAT二班、東側ビル六階、配置完了』

『狙撃手、照準確保。いつでも撃てます』

いくつもの銃口が、阿久津の一点へ集まっている。伊場は屋上を見回した。刑事課の面々が、各所に散っている。その中に、小暮の姿はない。取り調べ中に被疑者を逃がしたのなら、まっさきに現場へ呼ばれ、責めを負う立場のはずだ。なのに、どこにもいない。

新井が、もう一度声を投げる。

「阿久津さん、何が不満なんですか。話してください」

「おれは何もしてねえ!なのに、なんで捕まるんだ!」

「不法就労助長罪です。あなたは中国人留学生を――」

「そんなもん、みんなやってる!なんでおれだけなんだ!」

声が、うわずっていく。

「それに、あいつらが――」

言葉が、途中で切れた。阿久津の顔が、何かに追いつかれたように歪む。

あいつら。

この男は、ただの不法就労のブローカーではない。別の何かに追い詰められている。だから公安が動き、小暮が単独でこの男と向き合っていた。

「阿久津さん、誰があなたを追い詰めているんですか」新井が声を和らげる。「話してください。わたしたちが守ります」

「うそだ!」阿久津が叫んだ。「おまえらも、あいつらの仲間だ!おれを殺す気だろ!」

「そんなことはしません。わたしたちは警察です。市民を守るのが仕事です」

「警察?笑わせるな!」

阿久津の目に、底の見えない光が差した。

「警察が、一番信用できねえんだよ!」

声が裏返った。その一言だけ、ほかの叫びと手触りが違った。怒りではなく、怯えの底から押し出された響きだった。伊場は照準の先のその顔を見つめた。額に汗が浮き、目は落ちくぼみ、喉が小刻みに動いている。この男はただの不法就労のブローカーではない。何かに追われている。その何かに、公安が、小暮が触れていた。だが、いま手の中にあるのは銃だけだった。

女児が、また泣き出した。喉の奥から、もう声とも言えない細い音が漏れる。伊場は照準を保った。グリップを握り直す。汗が指の間を滑った。

午後一時四十五分。

膠着(こうちやく)が続いた。新井は声の調子を変えずに、条件を並べていく。

「弁護士を呼びましょう。あなたの話を、ちゃんと聞いてくれる人です」

阿久津は首を振った。

「飲み物を用意します。喉が渇いているでしょう」

阿久津の目が、一瞬だけ揺れた。が、すぐに歪んだ。

「いらねえ!どうせ毒でも入ってるんだろ!」

「そんなことはしません」

「うそつけ!」

言葉が往復するだけで、何も動かない。時間だけが、屋上の熱の中で溶けていく。女児の泣き声は途切れ途切れになり、やがて疲れ果てて掠れた。伊場のワイシャツは、背中まで濡れていた。銃を持つ手の感覚が、汗で遠くなっていく。

無線が入った。

『全隊、強行突入準備』

伊場は受令機を押さえた。聞き違いではない。交渉はまだ途中だ。膠着はしているが、女児は生きている。突入する局面ではない。

『副署長命令。阿久津を制圧する。発砲を許可する』

曽我(そが)。署に残っているはずの男の名が、なぜ現場の指揮系統を飛び越えて流れてくるのか。伊場は新井を見た。新井の顔から、交渉していたときの落ち着きが消えていた。眉の間に皺が寄り、唇が薄く開いて、言いかけた何かが止まる。指揮官が初めて見せた表情だった。

『撃て』

命令が、耳の奥で硬い音を立てた。

伊場の身体が、先に動いた。給水塔の陰から飛び出し、両足を開いて銃を構える。照準を阿久津の頭部へ。息を整えようとして、整わない。引き金に、指の腹が触れる。

照準の先へ、横から人影が割り込んだ。

小暮だった。汗で濡れたワイシャツが胸に張りつき、髪が額に乱れかかっている。右手に拳銃を提げていた。公安の刑事が現場に銃を持ち込むことはない。貸与には署長決裁がいる。誰がこの男に銃を握らせたのか――その問いが像を結ぶより早く、血走った目が伊場をまっすぐにとらえた。

「撃つな!」喉の奥から絞り出す声だった。「伊場、撃つな!」

「小暮、下がれ!」新井が叫ぶ。「射線上だ!」

小暮は動かない。阿久津でも女児でもなく、伊場だけを見ている。一昨日の深夜、受話器の向こうで沈んでいったあの声が、いまの目に重なった。おれみたいに、ならないでくれ。

阿久津が、包丁を女児の喉に押し当てた。皮膚がへこむ。短い悲鳴が裂けて、途切れた。

猶予は、もうなかった。伊場の指が引き金を絞り込む。乾いた銃声がひとつ、屋上の熱気を打った。

撃った。

その手応えが腕に残るより早く、小暮が銃を持ち上げた。銃口が伊場の胸の高さで止まる。

「やめろ!伊場、やめるんだ!」

手が震えていた。それでも指は引き金にかかっている。本気か。本気でおれを撃つのか。問いただす一秒もなかった。考えるより先に、訓練で身体に刻まれた動作が伊場を押し出した。脅威を排除しろ。生き延びろ。これは小暮だ、親友だ――その声を、別の声が踏み潰す。撃たれる。

照準を合わせた覚えはない。気づいたとき、銃声はもう鳴り終えていた。

小暮の首から血が噴いた。白いワイシャツに、赤がほどけるように広がっていく。膝が折れ、上体が斜め後ろへ傾いで、ゆっくりと屋上に沈んだ。ほとんど同時に、周囲のビルから銃声が連なった。阿久津の身体が弾かれて吹き飛び、包丁が陽光を撥ね返して宙を舞う。

女児が、放り出されるように転がり出た。刑事のひとりが駆け寄って抱き上げる。大丈夫だ、もう大丈夫だ――その声だけが、やけに遠くで優しかった。規制線の向こうから、母親が転がるように駆け込んできた。受け取った我が子を、声にならない声で抱きすくめる。女児の泣き声が、その肩のあたりで、ようやくほどけていった。

伊場は動けなかった。銃を握ったまま、倒れた小暮を見ている。流れ出た血が陽射しを受けて、黒く照り返していた。

おれが撃った。

親友を、おれが撃った。

受令機が、事務的に状況を刻んでいく。

『人質、確保』

『容疑者、制圧』

『負傷者あり。小暮刑事。至急、救急車を』

負傷者、という言葉が、小暮の名と結びつくのに間があった。指の力が抜け、銃が手から滑り落ちる。金属が屋上を打つ音が、やけに大きく響いた。膝が屈み、伊場はその場に沈んだ。

誰かが、肩を掴む。

「伊場!しっかりしろ!」

新井の声が、水の底から届くように遠い。伊場は小暮だけを見ていた。倒れたまま、小暮の目がこちらを向いている。唇がかすかに動いた。言葉の形を作ろうとして、声にならない。血だけが流れ続ける。

救急隊が、屋上を走ってきた。オレンジ色が小暮を囲み、担架に乗せ、胸を押し始める。手のひらが規則正しく上下する。それでも、押し当てたガーゼが、見る間に赤を吸っていった。伊場は膝をついたまま、それを見送ることしかできなかった。

現場が動き出す。阿久津の身体に、白い布がかけられた。血痕の縁にチョークの線が引かれ、カメラのシャッターが連続して鳴る。すべてが手順どおりに、淡々と進んでいく。その手順の輪から、伊場ひとりが外れていた。話しかけてくる声があった。意味が、像を結ばない。耳鳴りの向こうで、世界が薄い膜越しに動いていた。

午後二時五分。事件は終わった。誰かが、そう告げた気がした。

屋上の床に、ふたつの血だまりが滲んで、ひとつに溶けかけていた。小暮の血と、阿久津の血が、陽に灼かれて境目を失っていく。

新井が、腕に手をかけた。

「立てるか」

伊場は首を振った。膝に力が戻らない。

「無理するな。救急車を――」

「いえ」声が掠れた。「大丈夫です」

大丈夫なものは、何ひとつなかった。それでも、ほかに言える言葉がなかった。伊場はゆっくりと立ち上がった。膝が笑い、踏み出した一歩が床を探る。それでも、立てた。

出口へ歩く。手すりを頼りに、階段を一段ずつ降りる。背後から足音がついてきたが、振り返らなかった。ビルを出ると、規制線の外で、野次馬の視線が一斉に刺さった。その圧を、皮膚は感じても、心は受け取らない。

親友を撃った。その一行だけが、胸の中で繰り返し書き直されていく。

伊場は空を見上げた。六月の青が、容赦なく晴れ渡っている。まぶしさに目を閉じると、暗がりの奥で、あの夜の声が戻ってきた。

おれみたいに、ならないでくれ。

その言葉が何を指していたのか。閉じた目の裏に、答えの形をなさない暗がりだけが、深く沈んでいた。

〈つづく〉

プロフィール

安東能明(あんどう・よしあき)

小説家

1956年、静岡県生まれ。明治大学政経学部卒。浜松市役所勤務の傍ら、94年『死が舞い降りた』で日本推理サスペンス大賞優秀賞を受賞しデビュー。2000年『鬼子母神』でホラーサスペンス大賞特別賞、10年には「随監」で日本推理作家協会賞短編部門を受賞。緻密な取材が生む警察小説やサスペンス小説で多くのファンを魅了している。

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