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102歳で逝去・千玄室氏の素顔 山折哲雄が見た、戦友の無念を背負う「覚悟の目」

山折哲雄(宗教学者、評論家)

2026年10月23日 公開

102歳で逝去・千玄室氏の素顔 山折哲雄が見た、戦友の無念を背負う「覚悟の目」

2025年8月、102歳でこの世を去った茶道裏千家の千玄室氏。
元特攻隊員であり、文化勲章受章者でもあったその生涯は、華々しい功績だけでは語り尽くせません。
千利休をはじめ、茶の湯の歴史には権力との緊張関係や数々の死が刻まれてきました。その伝統を受け継ぎ、戦友たちの無念を胸に世界各地で平和を訴え続けた千氏。

宗教学者で評論家の山折哲雄氏が、茶道と死の深い結びつきをたどりながら、千玄室という人物の知られざる姿と、その生涯を貫いた「覚悟」の意味を読み解きます。

※本稿は、山折哲雄著『死の覚悟日本人らしさとは何か』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

千玄室の肖像

2025年8月14日、この列島では102歳になる千玄室さんがこの世を去った。安土・桃山時代の不世出の茶人・千利休の子孫だった。
この人物を、全国の大型メディアはこぞって、
元特攻の生き残り
文化勲章受章者
として報じ、不世出の茶人として悼(いた)んだ。

予想される讃辞ではあった。けれどもこのような言葉は彼の本質を伝えるものではなかった。むしろ見誤らせるものだったといっていい。

ところがまことに信じられないことだが、氏の死去の翌日に、極東のアラスカの地に、米国のトランプ大統領とロシアのプーチン大統領がやってきて、会談することになっていたのだ。
イスラエル・パレスチナ戦争とロシア・ウクライナ戦争が過酷無残な殺し合いをやっている真っ最中である。その二人が仁王立ちになり相手の胸ぐらをとり、戦争の停止・捕虜の交換をめぐって談合するのだという。

私はこの日の夜、闇のなかで妄想にふけっていた。この二人の大統領のあいだに割って入り、その談合を平地に安着させることのできる人物がこの国にはいたはずだった、と。
だが、その二人の前で茶を点てる玄室さんの肖像はたちまち消えてしまったのである。

千玄室さんは、先にもふれたが、安土・桃山時代の茶人・千利休の、血と死のあとを継ぐ現代の茶人である。「血と死のあとを継ぐ」とはいささか異様なもののいいようにみえるだろう。
けれども利休を語るにも、玄室を語るにしても、そのことを抜きに茶道の文化と歴史の核を語ることはできない。

 

死の影がさす「茶の湯」の歴史

千利休は堺の魚問屋の生まれ。十代で武野紹鷗(じょうおう)に茶の湯を学ぶ。やがて織田信長にその才能を認められ、茶頭となる。
信長が発見した茶礼はかなり異質なものだった。なぜなら彼が愛したものは茶道具だったからだ。

配下の武将たちの歓心を買うため金持ちの商人と談合し、茶道具に一方的な付加価値をつけて、贈与、売買、政治的利用にあてた。
豊臣秀吉という人間の珍品を活用したのもそのせいかもしれない。今日の文化財行政、文化財珍重の伝統もおそらく関係があるだろう。茶道具は貨幣の役割を果たしていたのだ。

見方にもよるが、「茶の湯」の歴史には、なぜか死の影がさしている。しかもそれが尋常な死の影ではない。

まず信長。本能寺で明智光秀によって暗殺されている。「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり」と謡って果てた。
次は、いうまでもなく千利休。秀吉によって死を贈られ、切腹して果てた。みずから死ぬことで彼は永遠を獲得したが、「茶の湯」は彼の生命を救えなかった。

山上宗二が次にくる。堺の出で、利休の高弟。信長に仕えたが、のち秀吉に仕えた。天正14(1586)年、秀長の茶会で茶頭をつとめたが、それを最後に高野山にのぼった。のち秀吉の小田原攻めに顔を出すが、秀吉の勘気にふれて斬刑に処された。

同じように古田織部。安土・桃山時代から江戸初期にかけて活躍した武将。信長と秀吉に仕えて参戦したつわもの。のち大坂冬の陣、夏の陣で出処進退を疑われ、自邸での切腹に追いこまれた。

最後に、時代は下るが幕末維新期の大老・井伊直弼である。
安政7(1860)年3月、雪の降る朝、江戸城桜田門外で水戸浪士たちによって暗殺された。今日あまり知られていないが、直弼は水準をはるかにこえる『茶湯一会集』という著作を残していた。茶の湯の極意は、「独座独服」にあるという境地を説いていた。

茶会が果て、招かれた客がすべて去って一人、座にもどる。立ち去った客人たちを思い一人、茶を喫する、という作法のことだ。
このような「独座観念」はそれ以前の伝統の中から刻み出されたものだったが、その伝統をさらに凝縮したようなところが、井伊直弼の文章にはにじみ出ている。

 

戦友たちの無念を抱えて

私は若いころは仕事がら外国には出張でよく出たが、その旅の中で、先にふれた千玄室さんの足跡にふれることが多かった。
まず行く先々の国で、裏千家の茶室や庭がつくられ、現地のさまざまな階層の人たちのために文化教室が開かれていた。

2つ目は、世界の各国のリーダーたちがしばしば千さんのもとを訪れ、お茶をのみ、話に耳を傾けていた。並の外交官ではマネのできないことだった。コトバだけではなく、カラダで実践していたのだ。
そんなときの唯一のメッセージが、「一盌(いちわん/一杯のお茶)からピースフルネスを」だった。

私は学生時代から「安保」「ベ平連」の運動にまきこまれたが、東西冷戦時代を経て「ノンポリ」に変身した。
しかし千さんはソ連共産党の動向に目を光らせ、重層的な世界観をもちつづけていた。国連では、共産圏の指導者たちも参加し、氏の点茶の作法を楽しんでいたという。

千利休の生きた時代は乱世だった。同時代者としては能の世阿弥、絵画の雪舟など創造的な人物が輩出された。その3人はみな禅の影響を強く受けていた。
千さんの活動の中にもそれがあった。茶道の根底には禅の修行が横たわり、その美意識が根づいていると考えていた。

思い出すのは十年ほど前のことだ。地元新聞の正月企画で、建仁寺管長の小堀泰巖さん、千さん、私で、鼎談をしたことがあった。
私が先着し、小堀さんとあとに到着した千さんを迎え待つという形になった。
千さんは、庭の細い道を歩き、ゆっくり玄関の土間に入った。そのとたん、いっきに腰を落として土下座の姿になったのだ。頭を土につけ、平蜘蛛(ひらぐも)作法といってもいいような姿勢になっていた。それが茶の湯の作法、日本文化の作法、人間の作法だといわんばかりに。

そんな千さんは「茶聖」の一人だったのかといえば、おそらくそうではないだろう。聖人か俗物俗人かと問われれば、俗物俗人の側に入るだろう。
信長や秀吉と激しくわたり合った先師・千利休の人生をみればおのずからわかるはずだ。茶道具の貨幣価値、つまり文化財価値にめざめ、最大限利用しつづけたつわものたちと、利休は生涯つき合いつづけたからだ。

文化財信仰が、今日この国の茶の湯の世界にもまんえんし、増殖しつづけている。そのことを「現代」で身をもって知りつくしているのもまた千玄室自身だった。
文化財信仰の毒をどうしたら抜くことができるのか。千玄室の目の輝きが晩年にいたるまで猛獣の光に包まれていたのも、そのためだろう。そしてそれは、若くして死んでいった戦友たちの無念の思いをあらわしていた。無念の思いを全部わしづかみにして生きてきた人間のあかしを示すもの、「覚悟」の目だったのではないだろうか。

プロフィール

山折哲雄( やまおり・てつお)

宗教学者、評論家

1931年、米国サンフランシスコ生まれ。岩手県花巻市出身。東北大学インド哲学科卒業。国際日本文化研究センター名誉教授(元所長)、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。著書に『悲しみの精神史』『宗教の力』(いずれもPHP研究所)など多数。

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