ここで「小さな謎」というのは、本能寺の変前後に見られる光秀の不審な行動のことである。さまざまな史料に、本能寺の変の少し前から死の直前までの光秀のようすが描かれているが、その中に気になる動きがあるのだ。たとえば次のようなものである。
(1)徳川家康を接待するよう命じられた光秀の安土屋敷で、用意の魚が腐って悪臭をはなった。これを聞いた信長が腹を立て、宿舎を堀久太郎のところへ変更した。光秀は面目を失って、魚や調度品を堀へ投げ込んだ。(川角太閤記)
(2)家康の接待について信長と話し合っていたとき、信長の好みに合わぬ要件で光秀が言葉を返したため、信長は立ち上がり、怒りを込め、1度か2度、光秀を足蹴にした。(フロイス日本史)
(3)光秀が愛宕山に参籠したとき、神前で2度3度と籤〈くじ〉をとった。(信長公記)
(4)愛宕山で連歌を詠み終え、寺僧が笹粽を出したとき、笹の葉をむかずに口にした。(林鍾談)
(5)本能寺を襲う前夜、亀山城下に兵をあつめた光秀は、酉の刻(午後六時)、自身で兵のあいだを馬で乗りまわり、三段に備えた。(川角太閤記)
(6)おなじく前夜、兵を進発したあとで重臣5人をよんで信長を討つとあかし、もし同心しないときは本能寺へひとり乱入し、腹を切る覚悟と迫った。(川角太閤記)
(7)細川藤孝あてに出した書状の中で光秀は、畿内は50日100日のうちに平定するだろうから、そうしたら十五郎にまかせて引退すると表明。
(8)山崎の合戦に負けて勝竜寺城に籠もった光秀は、夜半、ひそかに抜け出て、大道を通らず、田の畔、薮原の中をつたい、忍び忍びに落ちていった。(惟任謀叛記)
(9)勝竜寺城を抜け出た光秀は、隠れ歩きながら、農民たちに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城に連行するようにと頼んだ。(フロイス日本史)
ほかにもあるが、信用のできそうな史料に限るとこれくらいだろうか。
こうした挿話のどこがおかしいかというと、たとえば(1)の挿話では、信長に人々のうわさがとどくほど悪臭がひどいのなら、なぜ光秀自身が気がつかなかったのか、という点である。
この時点、陰暦5月未は現代では7月上旬だから、冷蔵庫もない戦国時代に生魚が傷むのは当然である。そのあたりの配慮がないのもおかしい。
なおこの挿話を荒唐無稽だと否定する人も多い。『川角太閤記』も軍記物の一種であり、創作が盛り込まれているのは確かである。しかしここでは「その時節の古き衆の口」と情報提供者があったことを記しており、この節に関しては信用していいと思う。
(2)は、信長を怒らせている時点ですでにおかしい。光秀は織田家中ではよそ者として孤立しており、信長の支持だけが頼りだった。『フロイス日本史』にこうある。
「……(光秀は)その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあって彼は余所者であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」
信長への取り入り方を心得ていて、機嫌を損ねるようなことはしなかったから、あれほど出世したのである。なのに、このときは足蹴にされるほど信長を怒らせたとは、どうしたことだろうか。
(3)の神籤のとり方も、やはり異常である。光秀の焦りをあらわしているという見方が一般的だろうが、果たしてそうか。百戦錬磨の武将が、大吉や吉が出なかったからといって未練がましく2度、3度と籤をとった、とは思えない。
また2度3度と籤をとったのは、願い事がふたつもみっつもあったから、と解釈している人もいるが、それならごくふつうのことであり、人目に立つこともなく、記録に残されもしなかっただろう。ところが記録に書き残されているのだから、やはり当時の人々の目にも異常に映ったと解釈すべきである。
(5)の異常さは、「自身で馬を乗り回し、兵を三段に分けた」ところにある。
ふつう、大将は指示を配下の使番に出し、使番が侍大将に伝えて軍勢を動かすものだ。このときの軍勢は1万3千ほど。そんな大軍を動かすのに、大将自身が軍勢のあいだを走り回って指示を出すなど、尋常ではない。
しかも酉の刻といえば午後6時前後である。(6)と(8)、(9)もそうだが、このときの光秀は夕方から夜にかけて活動的になっているように見える。なぜだろうか。
(7)は、畿内を平定したら十五郎にまかせて引退する、としたところが異様である。
十五郎は光秀の嫡男だが、このときわずか13歳だった。自分が天下を混乱に陥れたのに、足許だけ整理したらあとは13歳の子供にまかせて引退するなど、正常な判断力をもっていたら表明できることではない。
しかもこの書状は、自分から離れていこうとする細川藤孝を、味方につなぎとめようと説得するためのものなのである。13歳の子供にまかせると書けば、説得どころか逆効果になるということが、わからなかったのだろうか。
以上は、みな細かいことである。
「日本史最大の謎」を議論しているのに、どうして「魚の腐ったにおい」が問題なのか、と首をひねる方もいらっしゃるだろう。
しかも異常さが感じられるという点をのぞけば、それぞれの項目にとくにつながりもないように見える。
だがここにひとつの仮定をおくと、不審が解ける上、すべてがつながってくるのだ。
その仮定とは、
「光秀は認知症にかかっていたのではないか」
というものである。
そう。認知症。主に高齢者の方がかかる病気である。
認知症というと「物忘れ」、「痴呆」といった症状が思い浮かぶが、そればかりではない。脳の機能が全般的に低下してゆくので、さまざまな異常が見られるようになる。
(中略)
このように、光秀が認知症であったとすると、これまで挙げた小さな謎がきれいに解けるのである。
そして、なぜ信長を討ったかという大きな謎も、あっさりと解ける。
★具体的な謎解きは、本書『とまどい本能寺の変』をご覧ください。
岩井三四二 著
信長が死んだ! その時、家臣や敵将たちは……? 突然の大事件に右往左往する人々の悲哀と滑稽さを共感たっぷりに描く連作歴史小説。
<著者紹介>
岩井三四二(いわい・みよじ)
1958年、岐阜県生まれ。一橋大学経済学部卒。メーカーに勤務する傍ら小説を執筆し、96年、『一所懸命』で小説現代新人賞を受賞してデビュー。98年に『簒奪者』で歴史群像大賞、2003年に『月ノ浦惣庄公事置書』で松本清張賞、『村を助くは誰ぞ』で歴史文学賞を受賞。05年、『十楽の夢』が直木賞候補になる。08年に『清佑、ただいま在庄』で中山義秀文学賞を受賞。主な著書に、『あるじは信長』『あるじは秀吉』『あるじは家康』『とまどい関ケ原』『難儀でござる』『城は踊る』『おくうたま』『霧の城』『サムライ千年やりました』『江戸へ吹く風』『光秀曜変』『むつかしきこと承り候 公事指南控帳』などがある。