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本能寺の変 明智光秀は、なぜ織田信長を討ったのか?

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

2012年04月20日 公開 2024年12月16日 更新

『歴史街道』2012年5月号より

坂本城跡と明智光秀像
琵琶湖岸の坂本城跡と明智光秀像(滋賀県大津市)

明智光秀が織田信長誅滅を断行した動機は、いまだに日本史上最大の謎の1つである。
謎の解明が困難なのは、光秀関係の史料の多くが抹殺・改竄されてしまったためだ。それほど「主〈しゅう〉殺しの逆臣」という汚名は重いものであった。
しかし、残された数少ない史料を読み解き状況証拠を考察することで、光秀の実像は近年徐々に鮮明になり、本能寺の変の動機も、かなり絞られつつある。
 

突発説、単独犯行説、黒幕説…「主殺し」の真の動機は何か

なぜ「絶好のチャンス」は生まれたのか

 天正10年(1582)6月1日、申〈さる〉の刻(午後3時から5時ごろ)、居城である丹波・亀山城にいた明智光秀は家臣たちに出陣を命じる。だが、その日的地は明かされない。軍勢が勢揃いした午後8時ごろ、はじめて重臣たちに重大な決意を告げる光秀。重臣たちは驚愕するが、しかし光秀の想いを汲み覚悟を固めた。兵たちには、今日よりして天下様になられる。出世は手柄次第だ。勇み悦べ!」と触れが出され(『川角太閤記』)、全軍京都へ向けて進軍を開始する。明けて6月2日未明、興奮の面持ちで「敵」を取り囲んだ軍勢に、一斉攻撃が下知される。「本能寺の変」の幕が切って落とされたのである。

 いったいなぜ、光秀は織田信長の誅減を断行したのか。日本の歴史を大きく変えたこの事件は、いまだに日本史における最大の謎の1つであり続けている。

 そもそも、明智光秀に関する文書は極めて少ない。長い間、「主殺しの逆臣」というレッテルが貼られてきたために、史料の多くは光秀との関係を隠匿するために抹殺されるか改竄されるかの運命を辿ったからだ。それゆえ現段階で謎を解くには、残された数少ない史料を読み解き、状況証拠を採っていくしか道がないのである。

 まず、「その日」の状況から確認しておこう。信長は博多の豪商・島井宗室を正客に、京都・本能寺で自慢の38種もの名物茶道具を披露した茶会を終えて、僅かな手勢とともに本能寺に滞在していた。一方の光秀は、中国攻めを行なっている羽柴秀吉の援軍を命じられて、およそ1万3千の兵とともに京都にほど近い亀山城(亀岡市)にいた。

 羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益などの織田重臣たちは、各々、京都から遠く離れた前線に張り付いている。徳川家康は同年3月の武田討伐を労う饗応で、安土へ招かれた後、わずかな近臣と堺見物の最中。信長の嫡男・織田信忠は、家康の接待役としてともに堺を見物する予定であったが、信長の上洛を聞いて、当初の予定を変えて数百の手勢とともに京都に滞在していた。

 光秀にとってこれは、信長、信忠父子を一挙に討ち取る絶好のチャンスといってもいい。この状況が生まれたのは、単なる偶然だったのか。それとも誰かが巧妙に仕組んだのか。仕組んだとすれば、誰が、いかなる動機で……。まさに謎が謎を呼ぶのである。
 

残された史料が語るもの

 残された史料は何を語るのか。かつては「光秀は、積み重なった怨みを晴らすべくしい逆に及んだ」とする「怨恨説」がもっぱら主流であった。まず、それを覆したのが高柳光壽氏である。氏の『明智光秀』(吉川弘文館「人物叢書」1958)は、まさに光秀研究の端緒ともいえるものだった。高柳氏によって光秀に関するある程度確かな史料が集められ、それまでとは異なる光秀像が提示された。そして高柳氏は、それまで有力視されていた怨恨説を1つひとつ否定し、「光秀は天下を狙った」とする「野望説」を唱えたのである。

 この説は大きな反響を呼び、光秀像が塗り替えられていく。しかしその反面、天下を狙ったにしては、本能寺の変後の光秀の行動があまりに無計画ではないか、という意見も出されるようになった。そこで、「光秀は、いまが信長を討つ絶好のチャンスだと知って、突発的に謀反に及んだのではないか」とする「突発説」も唱えられ始める。

 もう1つ、史料研究で画期となったのは、当時、朝廷の周辺にいた人物たちが書いた日記などの分析であった。東大史料編纂所にいた岩沢愿彦 〈よしひこ〉 氏が昭和43年(1968)に「本能寺の変拾遺 ―『日々記』所収天正十年夏記について」という論文を『歴史地理』(吉川弘文館)に発表。勧修寺晴豊の『日々記』がはじめて活字に翻刻された。勧修寺晴豊は、武家を朝廷に取り次ぐ武家伝奏を務めていた公卿で、本能寺の変の前後にも信長や光秀と交流していた人物である。これを契機に『日々記』は多くの人によって読み直されるようになる。

 さらに吉田神道の当主で、朝廷と光秀の取り次ぎ役も務めていた吉田兼見(兼和)の『兼見卿記』の本能寺の変の前後の記録が改竄されていた(追及を恐れて書き直したものと、実際の日記の両方が残っている)ことも広く知られるようになった。これらの史料などから、「公家たちが裏で暗躍していたのでは」という推論がなされるようになっていく。

 碓かに当時、朝廷と信長の間にはさまざまな軋轢があり、信長が朝廷をないがしろにする考えをもっていた可能性がある(これについては、本特集内の別稿で触れる)。ここに注目した議論が「朝廷黒幕(関与)説」である。

 この「朝廷黒幕説」をはじめ、現在ではさまざまな黒幕説が唱えられている。足利義昭が裏で糸を引いていたのではないかとする「足利義昭黒幕説」もある。本能寺の変が起きる直前の5月に、朝廷は信長に対し、征夷大将軍、関白、太政大臣の三職のいずれかに就任してはどうかと持ちかけている(「三職推任」)。信長が征夷大将軍に任ぜられれば、足利義昭の将軍位は名実ともに剥奪されることになる。それを恐れた義昭が、かつて家臣であった光秀に誘いをかけたのではないかとする見方である。もっとも私自身は、当時の光秀は、義昭から指令を受けて動くような関係ではなかったと思うが……

 また、本能寺の変の「受益者」ともいえる、徳川家康や羽柴秀吉を黒幕とする説も根強い。

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さらに光秀自身の「動機」の数々とは

著者紹介

小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に、『戦国武将の叡智─ 人事・教養・リーダーシップ』『徳川家康 知られざる実像』『教養としての「戦国時代」』などがある。

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