花外楼は「誠実」に始まり「誠実」に還る
2014年07月28日 公開 2022年07月11日 更新
明治時代、大久保利通、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文ら維新の元勲たちが集い、日本近代化の大きなターニングポイントとなった「大阪会議」。その会場となったのが、大阪・北浜に本店を構える日本料理店「花外楼(かがいろう)」だ。
幾多の時代の波をくぐり抜け、営業を続けること180余年。名店の存在感を放ち続ける「老舗中の老舗」において、経営理念は、店の顔である女将(おかみ)にどう受け継がれ、息づいてきたのか。
《『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』 2014年7・8月号Vol.18[特集]理念をきわめる より》
<取材・構成:高野朋美/写真撮影:髙橋章夫>
歴史が紡いだ精神性こそよりどころ――木戸孝允に愛された店
花外楼〈かがいろう〉の始まりは、江戸時代後期の天保元年。加賀の国から大阪にやってきた伊助が、料理旅館・加賀伊を開いたのが前身です。
このころは、まだほんの小さなお店にすぎませんでした。店の構えも立派ではありませんでしたし、料理も際立っていたわけではなかった、という記録が残っています。
主人の伊助自身、まだ20~30代の若者。当時の大きな料亭と比べれば、ほんとうにこじんまりしたものでした。でも、それがかえって、わが家のような雰囲気を生んでいたのでしょう。古い新聞の切り抜きを見ると、幕末の維新志士たちが集う場だったという記事がいくつか見つかります。
有名でもないのに、人がたくさん集ったのは、アットホームさだけが理由ではなかったと思います。
そこには、初代伊助の人となりが深く関係しているように思うのです。伊助は一本筋の通った男気のある人物でした。天井裏には、4~5人が隠れられる秘密の部屋があり、何かあったときは、そこに志のある人たちをかくまったそうです。そんな人柄を慕って、志士をはじめとする多くの人が集まってきたのでしょう。
北浜から中之島にかけては、藩のお屋敷が軒を連ね、新撰組や各藩の大阪事務所も近くにございました。維新の志士たちもこのあたりを常宿としていたのでしょう。
加賀伊の目の前には、京都に通じる大川が流れ、いざというときには水路づたいに逃げられる絶好の環境。加えて、大阪の豪商たちが志士たちをバックアップしたという背景もあったようです。
なかでも、桂小五郎、のちの木戸孝允が、加賀伊を常宿に使ってくださっていました。一度、近藤勇が「ここに桂がいるだろう」と訪ねてきたとき、伊助は小さな一人娘に「そんな人いてないよ、と答えなさい」と言い含め、近藤勇を帰したというエピソードもございます。
大阪会議が加賀伊で開かれたのは、そんなご縁からです。大阪会議は、日本が立憲体制を築く上で、非常に重要な意味を持つ会合でした。会議が持たれた明治8年、大久保利通、木戸孝允、板垣退助といった政府の要人が、政治方針の違いから対立していましたが、伊藤博文、井上馨らの周旋にてそれを収める話し合いの場として選ばれたのが、木戸孝允とゆかりの深い加賀伊だったのです。
会議は無事、成功に終わりました。そのとき会の成功を喜び、お祝いとして、当店に「花外楼」という屋号を授けて下さったのも木戸孝允。お店には今でも、ご本人直筆の書(写真)が残されています。
(注・大阪会議 明治8(1875)年2月11日、伊藤博文、井上馨の周旋による参議大久保利通、在野の木戸孝允、板垣退助らの会合。めでたく和議が整い、木戸、板垣は参議に復帰。国会開設の準備、大審院の設置など三権分立体制を決定した。)