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民主政に短気を起こすなかれ

冨山和彦(経営共創基盤CEO)

2011年07月18日 公開 2022年09月15日 更新

民主政に短気を起こすなかれ

 政治のあまりのドタバタ。メディアや有識者は政治家の低劣さを嘆き、多くの国民はあきれ、被災地の人びとは中央政府の政策対応の遅れに怒りを露わにする。しかし、こういうときだからこそ、そもそも論に戻って、なぜ日本の民主政治がこんな体たらくなのかを、冷静に考えてみるべきではないか。なぜならこの光景は、小泉政権の5年半を除き、「失われた20年」のほとんどの時期において、ほぼ毎年繰り返されてきたのだから。

 民主政治の原語であるデモクラシーとは、国家の権力の源泉が国民に由来する(国民が主権者である)国家統治のあり方を示す意味で使われることが、もっとも一般的である。しかし人類の歴史において、デモクラシーを制度や政体として具現化する「民主政」の試みは、まさに苦難の歴史である。

 デモクラシーの起源とされる古代ギリシャは衆愚政治に陥って、国そのものが傾いていった。古代ローマは、主権者は元老院とローマ市民であるという民主的な建前を維持しつつ、実態は主権者から統治権を付託された「終身独裁官」である皇帝が統治する「帝政」移行によって、長きにわたる平和と繁栄を実現した。西欧地域において民主的政体が再び姿を現わすのは、長い中世を経たルネサンス期あたりからだが、実態は散発的に試みられては崩壊する歴史を繰り返す。植民地支配や産業革命で先行して豊かになった国や地域を中心に、もう一つの統治原理である権力分立(権利保障)と結びつきながら、ある程度の普遍性と安定性をもった立憲民主主義という統治原理になっていくのは、おそらく18世紀ごろから。しかしその過程で、きわめて多くの社会混乱や虐殺、あるいは侵略戦争が起きているのは周知のとおりだ。

 さらに20世紀に至り、当時、もっとも「民主的」なワイマール憲法をもっていたドイツから、きわめて「民主的」な手続きでナチス政権が登場する。チャーチルが「民主政は最悪な政治体制である。ただし、いままで人類が発明した他のすべての政治体制を除いての話だが」と喝破したごとく、じつに使いこなすに難しいのが民主政なのだ。有史以来の人類史で、民主的な政治体制が人びとを統治していた割合は、時間的にも地域的にも非常に小さいだろう。統治体制としては不安定で、あまり長持ちしてこなかったのが民主政なのかもしれない。民主政治をうまくやりくりするうえで、「魔法の杖」はないのである。

 しかるに日本の民主政治の歴史は、ひょっとすると「魔法の杖」や「特効薬」を探しつづけて漂流してきた歴史だったのではないか。新憲法の制定は、「戦後民主主義」の担い手たる進歩的文化人たちに、リベラルな理想政治の始まりを期待させた。いわゆる田中派支配の時代に「政治とカネ」の問題がクローズアップされると、諸々の政治改革をやれば政界が浄化され、「経済一流、政治三流」から脱却できるという神話が生まれた。つい2年前の総選挙においては、日本人の多くが、小選挙区制を背景にやっと政権交代可能な二大政党時代となり、日本の民主政治の閉塞感を打ち破ることができるのではないかと、大きな期待を抱いたように思う。

 しかし最大多数の最大幸福、すなわち多数決原理による利益配分を是とする民主政の大前提があるかぎり、政治家の利益(≒カネ)誘導力が有権者の投票行動に影響を与えるのはむしろ自然なこと。また現代日本の人口規模で普通選挙をやれば、有権者の数は膨大になり、自らが訴える政治的なアジェンダ(行動計画)を選挙民に届けるために金がかかるのも当たり前。インターネット時代になったからといって、それが克服されるかのような議論はまったく甘い。ネットの世界こそ、じつに利己的(≒資本主義的)な空間なのだから。

 現在、次の特効薬として期待されつつあるのは大連立か。しかし官民を問わず、日本型組織集団においては、いろいろな立場の人をより多く意思決定過程に取り込むと、かえって意見調整に手間取り、結局、重大な問題ほど明確な選択ができず、先送りされる場合が多くなる。これは良くも悪くも共同体の調和やコンセンサスづくりを重視するムラ型社会の宿命だ。歴史を振り返っても、関東大震災のころから国政レベルでは政権の短命化が進み、結局、民主的な政党政治は自壊。その後、非政党型の「挙国一致内閣」の時代に入り、挙句の果てが大政翼賛体制。しかしこれらの「大連立型政治」も、当時の日本にとって有効な解をもたらしてはいない。

 総理のクビのすげ替えも、政権のすげ替えも、そして大連立も、おそらくは魔法の杖とはならないだろう。民主政とは、むしろ魔法の杖的なものを忌避した政治体制と思ったほうがいい。国民自身が「自らが自らを統治する」という覚悟をもって、面倒くさい、自己犠牲も強いられるプロセスにコミットしつづけなければ、民主政治の閉塞は打開されない。いや、そういう閉塞感と、がまん強くつき合いつづけること、非効率な政治過程に働きかけつづけることが、民主政を国民がうまく使いこなす第一歩のように思う。欧米のデモクラシーは、古代ギリシャ以来、3000年の長い時間と膨大な犠牲のうえに成り立っている。明治憲法成立から約120年、現行憲法になって今年で65年目。民主政を、伝統も文化的背景も異なる日本の地において、この程度の期間でうまく使いこなせると考えるほうに無理があるのではないか。

 もちろん、私たちはいま、時間的猶予のあまりない、大きな国難に直面している。だからこそ、わが国の民主政治は試されているのであり、政治家はもちろん、私たち日本国民自身が民主政の担い手、主権者としての適格性を問われている。短気を起こしてはならない。深刻な国情を背にしての今後の何度かの選挙、繰り返される政権交代や政界再編、そこでの政治家たちの言動や政権担当者としての悪戦苦闘ぶり。それらをがまん強く見つめながら、未来の日本を営々と生きつづける「悠久の日本国民」の利益を代弁する現在の有権者として、私たち選挙民が真摯な投票行動を何度でも繰り返すことこそが肝要である。

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