
15歳でのプロ宣言からわずか2年で車いすテニスの四大大会で優勝。パリ・パラリンピックでも金メダルを獲得し、世界ランキング1位の座に輝いた車いすテニス界のニューヒーロー、小田凱人(おだ・ときと)選手。
パリ・パラリンピックの決勝は、多くの人に感動を与える一戦でした。試合当時、小田選手は何を考えていたのでしょうか? 書籍『夢を持つ、夢中になる、あとは かなえるだけ 車いすテニス小田凱人』よりエピソードを紹介します。
※本稿は、小田凱人監修,秋山英宏著『夢を持つ、夢中になる、あとは かなえるだけ 車いすテニス小田凱人』(Gakken)を一部抜粋・編集したものです。
パリ・パラリンピックの激闘
2024年8月30日、パリ・パラリンピックの車いすテニス競技が始まりました。会場は、四大大会の全仏オープンがおこなわれるローラン・ギャロスです。
世界ランキング2位の小田凱人は、男子シングルスの第2シードとして大会にのぞみました。第1シードは、最大のライバル、アルフィー・ヒューエット選手(イギリス)です。ヒューエット選手はこのとき26歳、凱人は18歳でした。
大会前に多くの人が予想したように、二人は、ばつぐんの強さを見せ、1セットも失うことなく、決勝に進みました。
凱人が、決勝がおこなわれるセンターコート、「コート・フィリップ・シャトリエ」に入場しました。いつものように、晴れ晴れとした表情です。
ただ、その心の中は、ふだんの試合とは大きくちがいました。試合前、トレーニングジムで体をほぐしていると、自然になみだがこぼれてきました。
もちろん、勝負がこわくて泣いたのではありません。
(いよいよ、自分の夢に、ちょう戦するときがやってきた。)
そんなうれしさと、試合を前にしたドキドキと、おうえんしてくれるみんなへの感謝など、いろいろな気持ちが入りみだれ、なみだがあふれてきたのでしょう。顔を上げると、凱人のウオーミングアップを見守る熊田浩也コーチも、やはり目になみだをためていました。
「アレ! トキト!」
いよいよ試合が始まりました。凱人の、ヒューエット選手との対戦成績は7勝8敗。実力は、ほぼ同じです。予想どおり、試合は接戦になりました。勝利の女神は、どちらの選手に金メダルをあたえるか、最後までまよっていたのでしょう。
最初のセットを取ったのは凱人でした。しかし、第2セットはヒューエット選手も調子を上げてきました。このセット、ゲームカウント2―1からの第4ゲームははげしい競り合いになりました。
スコアが40―40になると「デュース」になり、続けて2ポイント取らないと、ゲームが取れません。このとき、二人はデュースを10回もくりかえしました。苦しみながらゲームを取ったヒューエット選手は、まるで試合に勝ったように両手をつき上げてよろこびました。
もし、凱人が取って3―1となっていたら、ヒューエット選手がもりかえすのはむずかしくなっていたでしょう。ピンチを切りぬけたヒューエット選手がこのセットを取って、セットカウントは1―1になりました。
試合は最終セットに入りました。このセットを取ったほうが優勝です。
ヒューエット選手のいきおいが止まりません。凱人も必死にボールを追いました。しかし、テニスの試合には「流れ」があり、それがいったん方向を変えると、もとにもどすのはかんたんではありません。
ゲームカウントは3―5になりました。あと1ゲーム失うと、凱人は負けてしまいます。凱人にミスが続き、カウントは30―40、あと1ポイント失えば、ヒューエット選手の金メダルです。
この試合のテレビ中継で解説をしていたのは、東京・パラリンピック金メダルの国枝慎吾さんでした。国枝さんは、見ている人の悪い予感を打ち消すように、こんな言葉を口にしました。
「いや、まだわかりませんよ。」
次のポイントは、二人の運命を左右するものになりました。
ヒューエット選手が打ったドロップショットは、少しだけラインの外側に落ちました。あと数センチずれて、ラインにふれていれば、ヒューエット選手の勝ちで、試合は終わりでした。
しかし、判定はアウトで、スコアはデュースになりました。
「よっしゃあ!」
がけっぷちですくわれた凱人の表情に、明るさがもどりました。ひさしぶりに観客の声えんを求める身ぶりも見られました。ヒューエット選手がドロップショットを失敗するそのときまで、凱人はこう思っていました。
(負けるかもしれないな。)
しかし、このポイントをさかいに、凱人の予感はぎゃくのものになりました。
(相手は、こんな大事なところでドロップショットを打ってきた。もしかしたら、ほんとうは強く打ちたかったのに、その勇気がなくて、ドロップショットになってしまったのではないか。せめるためのドロップショットではなく、弱気のドロップショットなんじゃないか。だったら、この試合、おれの勝ちだ!)
ただ、このあとも、点を取ったり取られたりが続きました。ピンチとチャンスが、目まぐるしく入れかわります。天国か地ごくか。ここまでは並んで前に進んできた二人ですが、道はすぐそこで二つに分れます。それが勝負のきびしさです。
もっともきんちょうする場面ですが、凱人もヒューエット選手も、すがすがしい表情をしています。二人とも、集中力が、きんちょう感より勝っていたのでしょう。
デュースを3回くりかえしたのち、凱人がこのゲームを取りました。
「アレ! トキト!」
いいぞ、行け! 凱人、という意味のフランス語が観客席のあちこちから聞こえてきます。
相手のマッチポイントをのがれた凱人は、3―5から4―5、5―5、さらに6―5と連続してゲームを取り、流れを自分に引きよせました。
あと1ゲームで金メダルです。ベンチでの90秒間の休けいを終え、レシーブの位置に向う凱人は、スタジアムに流れる音楽に合わせて体をゆすっていました。今にもおどりだしそうです。試合中の選手が、こんなすがたを見せることは、めったにありません。それくらい、気分が乗っていたのでしょう。
凱人のプレーは、こうげき的でした。最初のマッチポイントは、ミスで凱人が失点しました。このパラリンピックでの目標は「自分らしくあること」です。どんな場面でもせめる――それが凱人にとっての自分らしさです。結果はミスとなりましたが、大事な場面だからこそ、自分らしくプレーしたのです。
(おれがやっていることは、まちがっていない!)
自分にいい聞かせて、凱人は二度目のマッチポイントにのぞみました。そうして、自分を信じてフォアハンドでこうげき的なリターンを打ちこみました。
ヒューエット選手は、せいいっぱいうでをのばして飛びつきましたが、ラケットはしっかりボールをとらえることができませんでした。凱人の勝利です。
おれは、このために生まれてきた
金メダルが決まったしゅん間、凱人はラケットを放り投げ、フィギュアスケートのスピンのように、その場で車いすをターンさせました。次に凱人は、意外な行動をとりました。車いすのタイヤを外したのです。車いすはバランスを失い、凱人はコートにたおれてしまいました。
いいえ、凱人は自分からコートにたおれこんだのです。このローラン・ギャロスでおこなわれる全仏オープンでは、優勝した選手がコートであおむけになり、土まみれになってよろこびを表すのが、約束ごとのようになっています。14回も優勝したラファエル・ナダル(スペイン)も、必ずそうして優勝をよろこびました。
しかし、車いすテニスで、こんなやり方でよろこびを表す選手はいませんでした。
(これを最初にやってみたい。)
凱人は、優勝して、赤土にまみれてよろこぶ自分のすがたを、あらかじめ想像していたのです。その凱人のもとにヒューエット選手が近づき、二人はあく手をしました。こうして、試合後に健とうをたたえあうのがテニスのマナーです。ただ、こんなかっこうであく手をかわした勝者と敗者は、これまでいなかったでしょう。
次にヒューエット選手は、タイヤを拾って、凱人が起きあがるのを助けてくれました。車いすに乗った凱人にヒューエット選手が顔を近づけ、二人は言葉をかわしました。かん声がすごかったので、ヒューエット選手は、さけぶように話しました。
「この(満員の観客が熱きょうしている)空間は、ぼくたちがつくりあげたんだよ。ぼくたちは、信じられないことをやってのけた。この試合は、車いすテニスの歴史に残るかもしれないね。」
表しょう式の前におこなわれたテレビのインタビューで、凱人はこうふんをかくそうともせず、こう話しました。
「やばい。かっこよすぎる、おれ。おれは、このために生まれてきた。」
その後、試合の解説をつとめた国枝さんによるインタビューでは、こんな答えを返しました。
「何かを変えるつもりでここに来ました。変わってくれると信じていました。(試合を見て)テニスを始めてくれる子がいるかもしれない。これからも自由にやって、そのすがたを、もっと多くの人に見てほしいと思います。」
こうして、凱人は初めて出場したパラリンピックで、金メダルを手にしました。小学生のころにえがいた大きな夢をかなえ、「子どもたちのヒーローになる」という目標を達成したのです。