1. PHPオンライン
  2. くらし
  3. ユング心理学のほうがアドラー心理学よりも、日本人にはしっくりくる!

くらし

ユング心理学のほうがアドラー心理学よりも、日本人にはしっくりくる!

長尾剛(作家)

2017年06月12日 公開 2022年12月07日 更新

アドラーとユングの違い

ところで、21世紀も十年以上が過ぎた2010年代のこんにち、それまで私たち日本人にあまり知られていなかったアドラー心理学が、ある意味で「現代日本人への啓蒙の教え」として、にわかに脚光を浴びたのは、誰もが記憶に新しいことでしょう。つい最近、2017年の1月からは、アドラー心理学を解説した名著『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健、共著)のタイトルをそのまま使った刑事ドラマが、テレビで放映される。―─といった「珍現象」まで起きたほどでした(もっとも、このドラマのアドラー心理学に対する理解は、はなはだ浅薄なものでしたが)。

『心のトリセツ「ユング心理学」がよくわかる本』はもちろん、あくまでもユング心理学を説明したものです。したがって、ユングと師弟関係にあったフロイトには若干触れていますが、ユングと直接の接点がほとんどなかったアドラーについては、まったく触れていません。そこで、上掲書の「文庫版まえがき」の中で、アドラー心理学とユング心理学を比較して、少し述べておきました。本項ではそれを紹介しましょう。

じつは、この2つを比べることで、「日本人には、ユング心理学が一番シックリくる」という筆者の考えも、よりよく解っていただけることにつながる。─―と思うのです。

まず、両者の違いを端的に述べると、次のような表現になるでしょう。

アドラー心理学では、「自分の心は、自分だけのものだ」と示す。対してユング心理学では、「自分の心は、自分のものであると同時に、人類すべてのものだ」

と示すのです。

どういうことでしょうか。

アドラー心理学では、「人の心は『その人だけのもの』であり、他の何人からも、他のどんな力からも、振り回されたり左右されたり、ましてや蹂躙されたりしない。過去の経験に縛られることもなければ、周りの人間に心の中へ踏み込まれることも、ない」と述べます。まさしく「個人の尊厳」というものを、高らかに述べるのです。アドラーは、自らの心理学を「個人心理学」と呼んでいましたが、じつに的を得たネーミングでしょう。

そしてアドラーは、「だから人の心は、自分の努力次第で、今、自分が『こうなりたい』と目指せる姿に、きっとなれる」と、強く主張します。人の心の可能性というものを、どこまでも認めます。

アドラーのこの説は、「人の心は、過去に存在した『他者からの影響』によってねじ曲げられたり押しつぶされたりは、しないはずだ」という結論に行き着きます。「現在にまで強く影響している過去の心の傷」を、心理学では「トラウマ(日本語で表現すると『心的外傷』)」と言いますが、アドラー心理学では、この「トラウマ」を完全否定するのです。

対して、ユング心理学は(フロイト心理学と同様)、「トラウマ」の存在を認め、言ってしまえば「人の心は現在も、過去の経験と密接につながっている」と考えます。だから人は、「現在の自分ばかりを見るのではなく、過去の自分も見ることで、自分の心の本当の姿が見えてくる」と、説くのです。

そしてユングは、その考えをさらにダイナミックに、大きなスケールにまで広げました。すなわち、「現在の心に影響を与えている『人の過去』とは、その人個人の過去だけではない。それは『全人類の過去』でもあるのだ。つまり、人の心とは、個人を超えて、過去の全人類、そして現在の全人類の心と、つながっているのだ」とまで、考えを発展させたのです。

この発想は、「個人心理学」と銘打ったアドラー心理学とは、まったく対照的なものです。

このユングの説では、確かに「人は、過去に縛られている」とも言えます。けれど、同時に「人は、過去と、ともにある。過去とは、今の自分の仲間・共同体なのだ」という「無限の味方」を得ることにも、つながります。そんな頼もしさを感じさせてくれる考え方です。

そして、この両者の説では、「人間関係」のとらえ方にも、大きな違いを生みます。

アドラー心理学では「心は自分だけのもの」ですから、他人には理解できません。したがって、人同士が解り合うためには、「相手を理解しようとする努力」と「相手に自分を解ってもらおうとする努力」が、求められます。つまり、互いの思いやり、互いへの「相手の心を大切にする気配り」が、求められるのです。

人間社会は、そうやって「互いを大切にする優しさ」を「意識する」ことで、成立します。

対して、ユング心理学では、そこまで「他人に対する意識」を重視しません。

人の心とは、過去も現在も「全人類で結び合っているもの・共有しているもの」なのですから、「他人を解ろう・他人に解らせよう」としなくとも、ごく自然に解り合えるはずなのです。

それが解らないとしたら、その原因は「他人が解らないから─―なのではなく、自分で自分が解っていないから」なのです。そしてその結果、すれ違いや誤解が生まれ、現実として「自分で自分を苦しめる」ことになってしまいます。

つまり「自分を知れば、他人も知ることができて、人間関係・社会は、すばらしい共同体になれる」というのが、ユング心理学の教えです。

筆者は、私たち日本人の心は、ユング心理学によって、より理解されやすい。―─と、考えます。

私たち日本人の歴史は、欧米の歴史と違い、穏やかで豊かな「日本列島の自然の恵み」の中で、温かく支え合って育まれてきました。ごく自然に、互いに解り合う共同体として、日本人は生きてきました。

私たち日本人の誰もが共感する、あの有名な宮沢賢治の詩「春と修羅・序」の冒頭を、思い起こしてみてください。

「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です」

「風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です」

まさしく「わたくしの心」とは「みんな」の中の「ひとつ」。その「ひとつ、ひとつ」が集まって「みんな」の心という、大きな灯火になっている。――と、宮沢賢治は述べているのです。

この意味は、ユング心理学の教えにつながるものだ。─―と、筆者は感じずにはいられません。

だからユング心理学は、私たち日本人の心を解いてくれるものだと、筆者は思います。

※本記事は、長尾剛著『心のトリセツ「ユング心理学」がよくわかる本』(PHP文庫)より、その一部を抜粋編集したものです。

関連記事

×