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社会

杉原千畝と命のビザをつないだ男たち

7月31日 This Day in History

2017年07月31日 公開 2022年03月01日 更新

杉原からのバトンをつないだ根井三郎と小辻節三

ウラジオストク日本総領事館の根井三郎の決断

杉原から「命のビザ」を受け取って、シベリア鉄道に乗り込んだユダヤ難民たちは、ソ連の秘密警察NKVDの取調べの恐怖にさらされながら、極東のウラジオストクに至ります。ここからは船で日本の敦賀に向かうことになっていましたが、問題が生じました。ウラジオストクの日本領事館に外務省から訓令が出ていたのです。その内容は、杉原が発給したビザを持つユダヤ難民を、日本に向かう船に乗せてはならない、というものでした。しかし先に進むことができず、強制送還されれば、ユダヤの人々には死が待つのみです。この時、ユダヤ人の窮状を前に、杉原の思いを受け継ぐ人物が現われました。ウラジオストク日本総領事館の根井三郎総領事代理です。

彼は外務省の指示を拒絶しました。 

「帝国の公館が発給したビザには、日本の威信がかかっている。これを無効にすれば、日本は国際的信頼を失うことになる。よって、指示には従わない」 

根井はその信念のもと、ユダヤ人を日本に向かう船に乗せ、またビザを持たないユダヤ人に対しても、渡航証明書を発行して、日本への入国を後押ししたのです。根井はハルビン学院で、杉原の後輩にあたりました。杉原の人道的な決断に共鳴し、日本を代表する外交官の一人として、気骨ある決断を彼も下したのです。このはからいによって、ユダヤの人々は敦賀に至ることを得ました。

敦賀の人々と小辻節三

敦賀の人々は憔悴するユダヤ難民を温かく迎え入れ、銭湯は臨時休業してユダヤ人に風呂を貸し切りにし、またりんごを差し入れする少年もいたといいます。しかし、それでもまだユダヤの人々は安心できませんでした。実は杉原の発給したビザでは、日本に滞在できるのは僅か10日間しか認められず、その短い時間の中で彼らは受け入れ先を決めなければならなかったのです。しかし、それは物理的にほとんど不可能でした。10日が過ぎて退去を命じられれば、彼らを待つのはまた強制送還です。

このユダヤ人の苦境に立ち上がったのが、小辻節三という人物でした。ヘブライ語を研究していた彼は、満鉄調査部勤務時代の上司である、外務大臣の松岡洋右にかけあいます。松岡洋右といえば、三国同盟推進や国際連盟脱退など、戦前の日本の進路を誤った外務大臣として記憶されていますが、このユダヤ人問題については英断を下すことになります。

かくして、およそ6000人のユダヤ人の命が救われたといわれます。杉原が発給した命のビザを、リレーのように繋ぎ、ユダヤの人々のために奔走・尽力した気骨ある日本人が少なからず存在していたことは、知っておきたいところです。

杉原千畝に「ヤド・バシェム賞」

戦後、昭和22年(1947)に収容所から解放されて帰国した杉原を待っていたのは、外務省免官でした。杉原は貿易関係の仕事に就き、海外生活を送るようになります。そんな杉原を、彼のビザで助けられたユダヤ人たちが探し出すのは、昭和43年(1968)のことでした。その中にはイスラエルの宗教大臣になっていた者もいて、杉原が職を賭してビザを発給していた事情を初めて知って驚き、また外務省を追われたことを憤慨します。昭和60年(1985)、イスラエル政府は日本人に対して唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を杉原に贈りました。その翌年、杉原は没します。享年86。日本政府が公式に杉原の名誉回復を行なったのは、平成12年(2000)のことでした。

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