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創業者・石橋信夫の教え~樋口武男・大和ハウス工業会長兼CEO

マネジメント誌「衆知」

2017年08月07日 公開 2017年08月07日 更新

創業者・石橋信夫の教え~樋口武男・大和ハウス工業会長兼CEO

※本記事はマネジメント誌『衆知』2017年5・6月号に掲載したものです。

樋口武男(大和ハウス工業会長兼CEO
ひぐちたけお。1938年兵庫県生まれ。61年に関西学院大学法学部を卒業。63年8月に大和ハウス工業に入社。山口支店長、福岡支店長、東京支社特建事業部長、常務取締役、専務取締役、大和団地代表取締役社長などを経て、大和ハウス工業代表取締役社長に就任。役員の任期短縮、事業部制の廃止および支店制の導入などの大改革を断行し、同社を発展に導く。2004年に代表取締役会長兼CEOとなり、現在に至る。
※樋口氏の「樋」の正しい表記は[木]偏に「通」です。

 

成長発展の原動力は創業者の理念にあり

大和ハウス工業は、「プレハブ住宅(工業化住宅)」の先駆けとなる商品を世に送り出し、住宅ローンを創出するなど、「家づくり」の常識をくつがえしてきた業界のパイオニアである。時代を変えた創業者・石橋信夫氏の薫陶を受け、同社を成長に導いた樋口会長に、事業改革の要諦をうかがった。

取材・構成:森末祐二
写真撮影:白岩貞昭
 

胸に刺さった創業者・石橋信夫の教え

「樋口君、長たる者、一番大切なのは決断やで」

1975年4月、大和ハウス工業の創業者である石橋信夫オーナー(当時は社長)と一緒に温泉に入っていた時、湯船に浸かっていたオーナーは、私のほうを振り向きながらそう言いました。これが、石橋オーナーから私への最初の直接指導でした。

振り返れば、大和ハウス工業で私が歩んできた道のりは、厳しい試練の連続でした。リーダーとしてどのように組織を率い、難局に活路をひらくかが試されました。その挑戦は、石橋オーナーのこのひと言から始まったのです。

当時36歳だった私は、その半年前に山口支店長に就任したばかり。文字通り「鬼」となって部下を厳しく指導していました。時には相手の胸ぐらをつかんで責め立てたり、遅刻を繰り返した者の頬をはり飛ばしたり……。若かったこともあり、あまりにも張り切りすぎて、仕事に対する熱い思いを手加減なくぶつけていたのです。当然、部下の心は離れていき、四面楚歌の状態に陥りました。

そんな折、石橋オーナーが山口支店の視察に訪れたのです。県知事や市長、地元の大きな取引先などへの挨拶回りのあと、宿泊先の旅館での食事と温泉に誘われました。そこで我慢しきれずにオーナーに愚痴をぶちまけた時の答えが、冒頭のひと言だったというわけです。

愚痴に対する直接的なアドバイスではありませんでしたが、その言葉は私の胸に刺さりました。帰宅後、どういう意味だったのかを考えに考え、その夜はほとんど眠れなかったのを覚えています。

確かに私は、重要な決断を下さず、小さなことにばかりこだわって、部下に辛くあたっていました。それに気づき、心底恥ずかしく思うとともに、その日から気持ちを入れ替え、部下たちと徹底的に話し合うことを決意したのです。

朝に一人、夜に一人のペースで、支店の部下全員と時間無制限でとことん話し合いました。たとえ部下の帰社が遅くても待ち続け、居酒屋に移動して深夜まで話し込むのです。それまで私が一方的に話していたのを改め、部下の話をじっくりと聞いて、それをもとに「決断」を下すようにしました。

それが奏功して、やがて支店の空気は変わり、営業成績はぐんぐん伸びていきました。なんと2年目には、営業社員一人あたりの売上と利益で、山口支店は全支店中のトップとなり、賞与でも最上級の評価を与えられたのです。部下たちとともに努力した成果を実感し、喜びを分かち合ったものでした。石橋オーナーからいただいたひと言がきっかけとなり、長たる者として初めて「道をひらいた」瞬間だったといってもいいでしょう。

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