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生き方

ブームの兆し「利他思考」 世界的イノベーションは「他人のための行動」から生まれる

ポール・スローン(訳:中川泉)

2018年08月20日 公開 2018年12月20日 更新

マハトマ・ガンジーは「世の中で目にしたいと思う変化」を体現した

マハトマ・ガンジーは暴力主義的行動の減少に寄与した

1869年にインドで生まれたガンジーは、厳格なヒンドゥー教徒として育てられた。肉は口にせず、酒も飲まず煙草も吸わないと、幼いときに母親に誓ったという。

彼はこの誓いを生涯貫き、その他の贅沢も一切控えた。19 歳のときにロンドンで法律を学び、帰国後はインドで弁護士として働いた。

1893年、弁護士研修の一環としてインド系法律事務所を手伝いに南アフリカ共和国へ赴いたガンジーは、同地在住のインド人に対する白人からの扱いに衝撃を受けた。

そのため現地に21 年間とどまり、虐げられた人々の権利擁護のために闘ったのである。

1913年には2000 人のインド人を率いて、インド人の州外移住を禁じる南アフリカの法律に反対し、300キロメートルに及ぶ抗議の行進を行った。このとき、彼は混乱を招いたという理由で投獄された。

インドに帰国したガンジーは、虐げられた人々――貧困層、女性、下層カースト――の権利のための運動を開始する。

1918年には独立政党「インド国民会議派」のトップに就任した。暴力による革命が必要だと考える人が多数を占めていた当時に、ガンジーは力を行使せずに政府の方針に反対する消極的抵抗を主張した。

政府による塩の専売に抗議したときには、支持者を率いて海岸まで400 キロメートルもの長距離の行進を行い、海辺での製塩まで行っている。

ガンジーが用いたもう一つの戦術が断食だった。

英国社会やインド社会における権利の侵害に抗議するため、長期間にわたって食べ物を口にしなかったのである。このような断食は危険を伴い、ガンジーの体を弱らせたが、それでも彼が途中で闘いをあきらめることはなかった。

1942年、英国がドイツと日本を相手に戦争状態に入ると、英国に対してガンジーは「インドから立ち去れ」運動を始める。彼は再び投獄され、釈放されたのは1944 年だった。

しかし、こうしたガンジーの不屈の抵抗により、1947年に英国がインドから退去する。だが、英国が退去すると、領土の分割に関してインドとパキスタンの間でヒンドゥー教徒とイスラム教徒による激しい衝突が起こり、ガンジーは大いに心を痛めた。

1948年1月、ニューデリーで行われた平和を願う野外祈祷会の会場で、ガンジーは狂信的なヒンドゥー教徒に撃たれて命を落とす。彼の死は全世界に衝撃を与え、暴力主義的行動の減少に寄与することとなった。

ガンジーはこう述べている。「私はこの地球上の何者も恐れない。私は誰にも悪意を抱かない。私は誰からの不法行為も受けない。偽りへの抵抗においては、私はあらゆる苦しみに耐えていく」

また、ガンジーは「世の中で目にしたいと思う変化に、自分自身がなりなさい」と言った。

暴力による革命しかないと考える人々のなかにあって、ガンジーは実力行使に異議を唱えて、非暴力を信条とした。

そしてみずからが手本となって先導し、計画的かつ自制した反抗の力を証明したのだ。暴力をつつしむよう、身をもって人々の心に訴えかけたのである。

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