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漢を乗っ取った“謀略家”王莽の「恐怖の大粛清」

石平(評論家/拓殖大学客員教授)

2019年06月29日 公開 2023年01月11日 更新

 

漢帝国の全権を一人で掌握した王莽

王莽のこのような振る舞いは当然、自らの名声を高めて人心を収攬(しゅうらん)することによって、さらなる政治的上昇に備えるための準備工作だと理解すべきだろう。が、彼にもやがて挫折が訪れた。

大司馬として政を補佐して一年余、成帝が崩御し、第十二代皇帝の哀帝(あいてい)が即位した。哀帝は皇族の一員の生まれであるが、先代の成帝の子ではない。

しかも、哀帝の祖母は傅(でん)氏という家の出身で生母は丁(てい)氏であるから、両方とも王氏一族の出自ではない。哀帝が即位すると、その皇后となったのも祖母傅氏の一族出自の娘である。その結果、傅氏一族が外戚の中軸となってしまい、王氏一族は排斥される対象となったのである。

こうしたなかで、王莽はとうとう中央官界から追い出されて、自らの領地である南陽郡新野(しんや)県に戻って謹慎の生活を送ることになった。24歳で遅い出世を果たして以来、王莽はしばらく失意のドン底に陥ったのである。

しかし王莽にとって運の良いことに、新野で謹慎してわずか一年後、哀帝が突如崩御した。帝には後継者としての子がなく、祖母の傅氏も生母の丁氏もすでに亡くなっているから、宮廷は大混乱に陥った。そのとき、王氏一族出自の孝元皇后(政君)は素早く動いた。

哀帝の亡き後、先代皇帝の生母で先々代皇帝の皇后である彼女の権勢を押さえ付ける者は、宮中にはもはやいない。孝元皇后は亡くなった哀帝の帯びた皇帝の璽綬(じじゅ)を手に入れたうえで朝廷を押さえ、哀帝の側近である大司馬の董賢(とうけん)の実権を剥奪した。そして、董賢
に取って代わって政権を握るべき人物として、王氏一族の王莽を領地から呼び戻した。

孝元皇后は都に帰ってきた王莽に哀帝の葬儀を任せると同時に、軍隊発動のための諸符節、宮廷を守る禁衛の指揮権、百官に対する統制のすべてを王莽に託したのである。

孝元皇后がこのような政変を断行した唯一の目的は、すなわち外戚としての王氏一族の復権を計ることだったことはいうまでもない。その結果、王氏一族の大黒柱となった王莽は、漢帝国の全権を一人で握ることになった。

王莽はさらに孝元皇后と謀議して、元帝の庶孫である中山王劉カンを新しい皇帝に選んだ。

劉衎を選んだ理由もただ一つ、九歳の子供である彼が皇帝になれば、王氏一族にとって操りやすい対象だからだ。案の定、平帝(へいてい)が即位したのちに、孝元皇后は摂政として朝廷に立ち、政務のすべてを王莽に委ねた。

 

政敵を自殺に追い込み埋葬すら許さず

このようにして、孝元皇后と王莽のコンビによる政権の支配が始まった。王莽が大権を握ってからまず断行したのは、自らのライバルや敵対勢力に対する凄まじい大粛清である。

彼はまず、前任の大司馬である董賢を弾劾して自殺に追い込み、董氏の財産を国庫に没収して、その一族全員を辺鄙(へんぴ)の地へと追放した。自殺した董賢の遺体の埋葬すら許さなかった。

そのとき、董賢がかつて信頼していた大司馬府の属吏である朱クという人は、董賢やその家族に対する迫害に憤慨して自ら官職を辞し、棺と衣服を買いととのえ、董賢の遺体を収容して葬ろうとした。しかしこれを聞いた王莽はなんと、朱クに何らかの罪を被らせ、彼を殴り殺した。

次の標的となるのは、哀帝の代の有力者で王莽の出世の邪魔になった人々、あるいは王莽自身が嫌っている人々である。

その際、王莽はいつも、自らの腹心に命じて粛清したい人の罪状を構成し、さらに別の腹心にそれを上奏させて、最後には孝元皇后に処断してもらう、というやり方を取っている。

要するに自分はいっさい顔を出さずにして、周りの人々をうまく使って政敵を粛清していくという、いかにも偽善家王莽らしいやり方である。

王莽はさらに、王氏一族と対抗できるような外戚勢力を徹底的に排除する。その結果、成帝の皇后で、哀帝のときに皇太后となった趙氏や、哀帝の皇后である傅氏は皇室から追い出されて庶民の身分に降ろされたのちに自殺を余儀なくされた。哀帝の生母である丁氏一族の人々も全員免官奪爵されて遠方に流れ、丁氏一族の大黒柱で大司馬を務めた丁明(ていめい)が殺された。

哀帝の祖母の皇太太后傅氏や母の皇太后丁氏に対しても、本人たちがすでに死亡したにもかかわらず、王莽はけっして容赦はしなかった。彼はまずこの二人の尊号を剥奪したのちに、二人の墓まで暴いて遺体に付けられた璽綬を奪った。

新しい皇帝となった平帝の母親方の親族に対して、王莽はとくに警戒していた。彼は平帝の母である中山国の衛姫(えいき)とその親族をいっさい首都に入れないようにして、平帝と母の対面すら許さなかった。そのために衛姫は、わが子のことを思って日夜泣いて嘆いたと、『漢書・外戚伝』が記している。

王莽自身が若き日に勉学した儒学経典の『礼経』の精神からすれば、人の親子を強制的に生き別れにさせるこのようなやり方は、度をすぎた暴挙というしかない。

しかし、自らの政治権力を守るためには、「君子」であるはずの王莽はどんな惨いことも平気でやり遂げたのである。

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