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野村克也氏が回想する「飯田哲也・奇跡のバックホーム」から学んだもの

野村克也(野球評論家)

2020年03月16日 公開

 

藤沢公也が原辰徳にホームランを打たれたことが問題なのではない

では今度は、選手に任せっぱなしにしたことで痛い目にあった例を挙げたい。

83年5月8日の巨人対中日戦で、ネット裏で観戦していた私が、腹立たしさを感じた場面があった。

中日の藤沢公也投手が、打者の原辰徳に対してカウントを3ボール0ストライクにしたときのこと。

「簡単に、ストレートでストライクを取りにいったりしたら、痛打を浴びるぞ」

私は思わず心の中で叫んでいた。当時の巨人は、王貞治が助監督としてスタッフの一員になっており、チームは積極的に打って出る姿勢が目立っていた。中心打者であればなおさらであった。

しかし、中日バッテリーは無警戒に真ん中にストレートを投げた。そして案の定、ホームランにされてしまったのである。

マウンドの藤沢は、「参ったなあ。3ボール0ストライクからでも打ってくるのか」という顔をしていた。

バッテリーの不注意は当然責められるべきであるが、私の言いたいのはそのことではない。その直後、近藤貞雄監督がマウンドに出ていった。それが問題なのである。

「なぜ、いまごろ出ていくんだ。同じ行くのなら、もう1球前に出ていくべきじゃないのか」

私は心中でそう非難した。カウントが3ボール― 0ストライクになったとき、たとえマウンドに行かなくても、捕手を呼んで、「このカウントからでも打ってくるぞ。簡単にストライクを取りにいくな」という助言が欲しかった。

近藤監督はおそらく、当時の巨人の傾向を知っていたと思う。ベンチの中でそのことを考えていたはずだ。

「簡単にストライクを取りにいったら、狙われるぞ。だけど、そんなことくらい、わかるだろう。彼らもプロだから、当然考えているに違いない。ここは彼らに任せよう」

こんなふうに見ていたのではないだろうか。そして、

「それみろ、やはり打たれたじゃないか。なぜあんな球を投げるんだ。プロならもっとしっかりしろ」

などと思って、マウンドに向かったのではないだろうか。しかし、あの場面で出ていっても、時すでに遅し、なのである。

 

「念を押す」ことを面倒に思ってはいけない

このように、大事な場面では、「念を押す」ということが必要になることがある。

それは、信用していない、というわけではない。選手はうっかりしているかもしれないし、冷静さを欠いている場合だってある。信用して起用していても、絶えずマイナス因子は考慮すべきなのである。

「わかっているだろうから、まあいいや」ではいけない。川上哲治監督は「石橋を叩いても渡らない」などと言われたが、それくらいの用心深さが求められる。臆病であることと細心であることは、異なるのだ。

結果を大きく左右する局面では、部下に対して「わかっているだろう」と任せっぱなしにせず、しっかり念を押すべきである。そのほうが部下も気持ちを整理して、仕事に打ち込める。

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