「長岡藩の米百俵」の精神に隠された"今の日本が失ったモノ"
2021年08月30日 公開 2021年08月30日 更新
AI(人工知能)の急速な発達により、コンピュータが人間を超える知性を持つようになる「シンギュラリティ(技術的特異点)」が到来し、人間の価値が改めて問われようとしています。
その中で「なぜ日本の教育はこうも変わらないのか」と、忸怩たる思いを抱えるのは、経営者でありながら国内外で様々な教育支援活動を手がけた経験を持つ大久保秀夫氏。
「人づくり」が企業経営の大きな仕事であるとし、教育界でも精力的に活動する大久保氏が語る「日本の教育に欠けているもの」とはどのようなものなのでしょうか。また同氏がなぜ「教育」に携わるのか、その原点と信念に迫ります。
※本稿は、大久保秀夫著『世界最高の人材を育てる「気づき」の教育』(アチーブメント出版)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
私が教育支援に取り組む理由
この世の中で最も大切なものは教育であり、教育がすべての始まりだと私は思います。教育は、政治や経済、社会、文化、芸術という、人間のありとあらゆる活動の根幹をなすものです。
私自身は教育者ではありませんが、1980年に新日本工販株式会社(現・株式会社フォーバル)を25歳で設立して以来、経営者として人材育成に携わってきました。
1988年に当時、創業から日本最短記録で店頭登録銘柄(現・JASDAQ)に株式を公開して以来、情報通信分野でチャレンジを続け、国内3社、海外1社を上場させてきた中で、私は経営という仕事の多くの部分は人を育てることにあり、それはまさに教育だということに気づいたのです。
そういう体験から、私は、企業での人材育成を通じて教育という問題に興味を持つようになり、勉強を重ねるようになりました。会社以外でも、「大久保秀夫塾」という経営塾をつくり、若い経営者の皆さんを中心に、経営とは何か、成功する経営者の条件とは何か、などについて教えてきました。
その一方で、私は子どもたちに最高の教育を提供する理想の学校をつくりたいという思いを抱き、実際に学校の設立プロジェクトにも携わっています。
たとえば国内では、次世代リーダーを育てることを目的に、福岡県内の経済界や教育界の有志たちが福岡県宗像市に設立を目指している、「志明館小中学校」(仮称)の設立発起人に、東京からは唯一、私が名を連ねています。
また2008年には、「真の愛情と情熱をもった世界レベルの教育者の育成」と「利他の心と国際的な視野をもった高度人材の育成」という理念に基づき、カンボジアを始めとする途上国の教育支援を行う公益財団法人CIESF(シーセフ/旧・一般財団法人カンボジア国際教育支援基金)を設立しました。
そのCIESFの事業の1つとして、2016年に「地球益を目指す、志をもったリーダーを育てる」という建学の精神のもとで、カンボジアの子どもたちに質の高い教育を届ける幼稚部・小学部・中学部一貫校のCIESF Leaders Academy(CLA:シーセフ・リーダーズ・アカデミー)の幼稚部を開校。
2019年には小学部を開校しています。CLAは、かつての内戦やポル・ポト政権の独裁政治などによって荒廃したカンボジアの教育を立て直し、国の未来を背負って立つリーダーを育成するモデル校として、大いに期待されています。
このように、私は今、経営塾「大久保秀夫塾」の塾長、「志明館小中学校」(仮称)の発起人、CIESFの理事長およびCLAの創設者という3つの側面から教育支援に取り組んでいるわけです。
現在の日本の教育は、戦後の高度経済成長期につくられた制度やシステムがいまだに使われ続けている状態で、今の時代に合わなくなってきています。そのため、これからの世の中の変化を見据えたものにつくり替えていかなければならないと思っています。
62歳のとき、私自身が脳梗塞という病を患い、生き方を大きく変えられたということもありますが、これからの残りの人生を、私は教育制度の改革に費やしたいと考えています。
教育はすべての始まり─「人づくり」の原点に立ち返れ
持続可能な世界の実現を目指し2015年に採択された国連のSDGs(持続可能な開発目標)に17個の目標が定められていますが、私は世界で起こっている問題の多くは、人間の「自分だけが良ければいい」「自分の国だけ良ければいい」「今だけ良ければいい」という考え方が根本にあるのだと考えています。
利己的で刹那的な人間の考え方が、紛争を生み、貧困を生み、環境の問題を生んでいるのです。世界の問題に対する対症療法も必要だと思いますが、根本的に問題を解決するためには、問題を解決できる利他の心を持った人材を育てることが絶対に必要なのです。人間が生み出してしまった問題は、人間が解決していくしかないのです。
そのため、私はSDGsの目標の中で、「質の高い教育をみんなに」という第4の目標がもっとも大切で、他の問題の解決のためのかなめになると考えています。環境の問題もジェンダーの問題も、紛争の問題も、教育をしっかり行うことで、時間はかかるにしても解決の方向に向かうことができるのです。
しかし今は、教育をないがしろにしているために、さまざまな問題が解決するどころかもっとひどくなっているのが実情です。こうした問題を、一気に変えていくすべはありません。
しかし教育を通じて、子どもたちに「人は何のために生きるのか」、「人としてどうあるべきか」ということを気づかせていく中で、彼らや彼女たちが大人になったとき、今よりも素晴らしい社会を築いてくれるはずだと思うのです。
故に、教育を変えることが世の中を変えることであると、私は信じて疑いません。日本では、教育の大切さを論じる際に、長岡藩の「米百俵」の話がよく例に出されます。江戸時代末期に起きた戊辰戦争(1868〜1869年)で、新政府軍と戦った長岡藩は見渡す限りの焼け野原になり、困窮を極めました。
そんなとき、長岡藩の窮状を知った三根山藩(現在の新潟市西蒲区峰岡)から米百俵が見舞品として届きます。
米百俵が届き、食事にも事欠いていた藩士たちはほっとしましたが、その当時、藩の大参事という要職にあった小林虎三郎は、この米百俵を売却して資金をつくり、国漢学校を設立して藩士の子弟だけでなく、町民や農民の子どもにも分け隔てなく教育を行ったのです。
つまり、学校をつくって人をつくり、長岡藩を変えようとしたのです。同じく幕末の長州藩で、吉田松陰が主宰した松下村塾は、小さな私塾だったにもかかわらず、高杉晋作や伊藤博文、山縣有朋を始め、明治維新を主導し、新しい日本をつくることに力を尽くした多くの人材を輩出しました。
いわば松下村塾は、人をつくって日本を近代化し、国を変えることに大きく貢献したわけです。本来、教育の目的はそのように、人をつくって社会や国を変えることにあるはずです。
ところが今の日本では、教育から人づくりという本来の目的が消え、生徒たちを「いい学校」に入れることばかりに一生懸命で、教育がどんどん刹那的なものになっているように見えなくもありません。
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「人としてどうあるべきか」を、子どもたちにまず教えたい